ぼくのダサ坊音楽遍歴 その2 ロキノン系とは何者だったのか?

AppleMusicは便利ですね。昨日の夜は90年代中盤から後半の曲を検索しデータベースの海のなかを彷徨っていたんですが、名曲はいつ聴いても変わりません。変わるのは聴いているぼくらのほうなのです。しかし改めて驚くのは、その当時聴いていたミュージシャンたちは、いまのぼくよりも年下であることが珍しくないということです。なかには10代のミュージシャンもいました。「いったい俺はこの年までなにをしていたんだ?」そう自問するのもしかたありません。その辺のことも絡めながら、文章を記すことができればいいな、と思っています。たぶん、脱線します。

前回は、ぼくが中学時代を過ごした90年代後半の音楽シーンを軽く振り返りつつ、当時のぼくは海外の先進的な音楽(だったと思っていた)を聴いていたこと、その一方でクラスメイトの男子たちはビジュアル系と呼ばれていたバンドに熱中し、ギターを持ち始めたことなどを書きました。ちなみにその頃にぼくはお年玉でサンプラーを買っています。音を録音して、様々に変化させるアレです。そんなもん買ってどうするんだ、と親に言われた記憶がありますが、現在のぼくも同じことを思います。なぜ?
それはとにかく、先述のとおり、ぼくはいわゆるビジュアル系は聴かなかったのですが、ではその頃のぼくはひたすらテクノやポストロックを聴いていたのか?日本の音楽はいっさい聴かなかったのか?否、そんなことはありませんでした。では、なにを聴いていたのか?

90年代後半というのは、日本にインターネットが全面的に浸透する前夜という時代で、まだ出版業界の力が強い時代でした。ぼくは中学生の時点で(98年頃)インターネット環境には接していたものの、まだ雑誌などに影響されて生活していたのも間違いありません。
さて、先ほど、ビジュアル系に触れました。彼らの影響力は強かったのですが、そんなビジュアル系を無視した雑誌がありました。そう、悪名高きロッキング・オン・ジャパンです。
この雑誌の歴史は古いのですが、ここではとりあえず、ぼくの中学時代にあたる90年代後半に焦点を当てたいと思います。この雑誌のせいで、ぼくはいまだにカラオケで歌う曲に迷うせいになるのです。

前回の記事で「98年組」という女性アーティストの当たり年だということを書きました。その1年前に当たる97年の年を皆さんはどれほど覚えてるでしょうか?ぼくが小学校6年生だった時です。ペルーの日本人大使館占拠事件?ダウンタウンのごっつええ感じが終了したこと?はたまた、まだ生まれていない?まぁ、いろいろあるでしょうが、この年というのは、スーパーカー、くるり、ナンバーガール、中村一義といった、いわゆる「ロキノン系」のスターたちがデビューしているのです。花の97年組、と呼ばれているかどうかは知りませんし、スターというには地味な存在ではあるかもしれません。しかし彼らは、たしかに、ある一定の層の心を掴んだのです。ちなみに97年はフジロックフェスティバルが初開催された年でもあります。

さて、当たり前のように「ロキノン系」と書きましたが「ロキノン系」とは、なんなのでしょう?上に挙げたミュージシャンたちも、かなり音楽性が違います。教科書的な説明、というか字義通りに受け止めれば「ロッキング・オン・ジャパンに載ってるミュージシャンたち」となります。これでは曖昧模糊に過ぎますでしょうか。しかしネット上で軽く検索してみても、はっきりとした定義はなく、漠然としています。2019年現在でも雑誌はありますし「ロキノン系」に属するとされるミュージシャンはいますが、ここは、ぼくの個人的な雑感としての「ロキノン系」を無理やり定義しましょう。つまり、前述の97年組を中心とした、90年代後半の「ロキノン系」に限定した定義です。

「ロキノン系」とはなんだったのか?
先ほどカラオケについて少し触れましたが、ぼくはカラオケでの選曲に困ることが多いのです。音痴だということもあるのですが、そもそもメインストリームの音楽に触れていないせいで、歌うべき曲を知らなかったりするのです。90年代というのはカラオケが盛り上がった時代でもありました。これはつまり、みんなで盛り上がれる曲、共感できる歌こそ重用される時代ということです。みんなが知っている定番の曲こそが、カラオケで歌われるべき曲ということです。
いま「共感」というワードを使いました。これはとても大切なことです。コミュニケーションツールとしての音楽。さて、文字数も増えてきたので、結論を先に言いましょう。「ロキノン系」というのは「他者との共感性を遮断し、コミュニケーションの手段としての音楽を否定した楽曲郡」なのです。どういうことでしょうか。

もちろん「ロキノン系」に属するミュージシャンの楽曲もカラオケでは歌えますし、そもそもテレビにはほとんど出ないだけで、大手の雑誌で取り上げられているのだから、まったく周りに聴いてない人間がいないことなど、ありえないのです。しかし大切なのは、想像です。幻想と言い換えてもいいかもしれません。あの頃の「ロキノン系」というのは「ぼくだけが知っている(と思い込んでいる)良質な音楽」という幻想を与えてくれたのです。「ロキノン厨」という「ロキノン系」を揶揄した言葉があります。これは、先述した定義からすれば当然の帰結です。他人とのコミュニケーションを破棄して、そもそも共感など求めていないのですから。そして、それでいいのだと思っているのが「ロキノン系」だったのです。選民意識!ビジュアル系はアッパーで開かれていました。それに対して、ダウナーで閉じられた引きこもり系の音楽が「ロキノン系」だったのです。奇しくも当時は宅録というのが流行ってました。この辺は海外のポストロックともつながる意識なのですが、それはまたの機会にします。

またしても長くなってしまったうえに、当初予定していた文章とは、まったく違う方向に話が転がった気がします。「ロキノン系」について話すのはいいとして、ぼくの個人的な話があまりできませんでした。需要なさそうなのでいいですが。なんでぼくが「ロキノン系」を認めていたのか?それは簡単に言えば、ぼくの思春期得優のひねくれた自意識が成したものだったのでしょう。この辺には思い出がいっぱい転がっているのですが、うまくまとめられそうにもありません。次回があるなら「ロキノン系」からさらに遡っていく、とあるジャンルについて書きたいと思います。じゃあまたね!

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