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【第1章】その20✤アリシア----メッヘレンでの幸せな生活

セシリアと私は不思議なことに声質もとても似ているので、一緒に歌うと綺麗な調べを奏でることができるのだ


 私達が住んでいるメッヘレンの街には聖ロンバウツ大聖堂のすぐ側にグローテマルクト広場(注1参照)があって、週に1度そこでは大きな市場が開かれる。
 
 ミナ(ベアトリスはここへ来てからはこのように名乗っていた)は常に忙しく働いていたのだが、特に市場のある日は忙しくしていた。
 
 ミナは私達の裏庭にある小さな畑を耕し野菜を収穫し、それを市場で売っていた。私達が婦人用に毛糸で作る襟や袖の飾りも、遠くイタリアや神聖ローマ帝国からの商人達が買っていくこともあり、その売ったお金でまた羊毛を買いつつ、糸がある限りはミナと2人で作り続けた。でも他の農家の子供などは、女の子でも小さい時から大変な農作業を手伝わされている、それに比べたら好きな編み物やお裁縫をしていれば良いだけの生活は充分幸せだった。
 
 セシリアはもうすぐ6歳になるのだが、私がやはり6歳の時にミナから習ったように、ただただどこまでもまっすぐに長く編む練習を始めることができて、とても喜んでいる。そんな可愛らしいセシリアと私はいつも一緒に過ごしていて、ミナの畑仕事も家事も、できることは全て2人で手伝い、そして暇な時には私とセシリアは運河まで散歩して、運河や船を眺めて過ごすのが大好きだった。運河の流れを見て、運河の上を吹く風を肌で感じるととても素敵な気分になれた。
 
 セシリアの手は小さくて愛らしく、いつも私の手をしっかり握って付いてくる。街からベギンホフに戻る間の道は新緑が輝き、ベギンホフの入り口の小さな門は屋根があって小さい塔のようなのだが、そこには薔薇の蔦がからまり、その入り口を通り抜けた時に広がるベギンホフの広場がまた美しい。
 
 また、私達は日曜日のミサは聖ロンバウツ大聖堂ではなくて、近所にある聖カタリナ教会へ通っているのだが、セシリアも私もそこで聖歌を聞くのも歌うのも大好きで、神父様も
「歌うことは祈ることと同じこと」といつも言っているので、私とセシリアは2人でよく歌っていた。そしてミアはその歌を聞いては
「天上界の私の可愛い天使たち」と、いつもとても喜んでくれる。
 
 セシリアと私は不思議なことに声質もとても似ているので、一緒に歌うと綺麗な調べを奏でることができるのだ。まだたった5歳のセシリアだったが、歌っている時だけは、大きい女の子のようにしっかりと歌うことができた。私はできることならセシリアと共に教会の聖歌隊に入りたかったが、聖歌隊は男子だけにしか許されていないので、教会から帰宅した日曜日の午後はベギンホフの広場に出ては2人で知っている数曲のグレゴリオ聖歌(注2参照)を歌っていた。
 
 日曜日は私達キリスト教徒にとっては働いてはいけない安息日なので、ベギンホフの皆も足を止め、私達の歌を聞き、そして称賛し、たまに高価な果物のベリーの実、焼きたてのパンなどを分けてもらうこともあった。
 
 ここは大きな壁に囲まれて建つ、たくさんの小さな家があるベギンホフなのだが、ここには女性しか住んでいなかったためか、争いごとも少なく、毎日がとても平和だったので、たまに父がいたらどんなだったのだろう、と思うときはあったが、市場などで見かける男の人達は粗野で声も大きく、私はミナとセシリアと3人での暮らしが幸せと感じていたのだ。
 
 子供の時に逃げる直前に現れたのはいつも大きな黒い服を着た男の人達だったし、当時の屋敷守りのおじいさんくらいしか、優しい男の人というのを身近では見たこともなく、あと今、教会でよく見る男性というのは神父様くらいだが、父というものがいてもいなくても、自分の人生にはそれほど変化はないように思っていた。
 
 最初からミナが自分の母ではないことはもちろんわかっていたし、なぜベアトリスが、ここでは“ミナ”という名前に変えたのかも不思議には思っていた。
 
 ただ12歳になり、自分の出自については知りたい気持ちも出てきてはいたのだが、セシリアは私のことをどうやら本当の姉と思っているようだし、私達は2人共ミナのことを「ママ」と呼んでいたので、もうこのままでも良いような気持ちにもなっていた。そしてこれはミナには聞いてはいけないように感じていたのだ。ミナは時々ふと悲しい顔をすることがあり、それはミナが昔を思い出しているからなのだろうと、それは私にも理解できていたから……。
 
 そして「聖体の祝日」の行列---プロセッション(注3参照)という大きな祝祭が終わって数日後のこと、国中が悲しみにくれる出来事が起こる。
 
 君主様のフィリップ善良公が亡くなられてしまったのだ。
 
 この100年あまり、フィリップ公治世の時代にも、フランスやイギリスでは百年戦争(1339年~1453年)が勃発し、いまだにイギリスでは薔薇戦争(1455年~1487年)が続いているのだが、ブルゴーニュ公国がそれほど被害を受けずに済んだのは、ひとえにフィリップ公の正確な判断の賜(たまもの)(注4参照)と街ではもっぱらの噂であり、そのフィリップ公のたった一人の跡継ぎシャルル公が果たして父公爵と同じように、立派な君主になるのかどうかまだ誰にもわからなかったので、街ではその噂でも持ちきりだった。
 
 そしてこのことがひとつのきっかけとなり、私達はこの平和で美しい街メッヘレンからブルージュへ引っ越しをすることになる。


※写真はベルギーメッヘレンにあるゴシック様式の聖ロンバウツ大聖堂。


(注1)
 フラマン語で「大きな市場」という意味。しばしば広場の名称として用いられる。

(注2)
 グレゴリオ聖歌とはローマカトリック教会の公式な聖歌として、教会で男性および少年合唱団によって、また修道会内では修道僧、修道女によって歌われてきた、モノフォニー(単旋律)、無伴奏の宗教音楽。

(注3)
 Procession (仏語:Procession ドイツ語:Prozession)とは、宗教儀礼の一つで、集団で儀礼的な行列のことで、通常は徒歩で行う。教会と礼拝堂の宗教行事のパレードのこと。

(注4)
 例えばフィリップ善良公の配下の者が、ジャンヌ・ダルクを捕らえてイングランド軍に引き渡したことでフィリップ善良公は有名。それによってジャンヌは死刑となるが、フランスにもイギリスにも肩入れせず、うまく立ち回っていたことが、結局はブルゴーニュ公国に安定をもたらした。



主な参考文献

「中世ヨーロッパの都市生活」ジョゼフ・ギース/フランシス・ギース著  青島淑子訳  (ISBN 06-159776-0)
「Maria von Burgund」 Carl Vossen 著    (ISBN 3-512-00636-1)
「Marie de Bourgogne」 Georges-Henri Dumont著   (ISBN 978-2-213-01197-4)


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