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いまさら歴代大河ドラマを観る 『麒麟がくる』③

本当に、要らないエピソードが多かったね。
伏線が伏線にならず、後につながらずに立ち消えになったエピソードも多い。
登場人物の性格も首尾一貫せず、俳優さんたちは「役作り」どころではなかっただろう。

架空の登場人物も意味が分からない。
三河(のち家康)の忍びの菊丸や、井呂波太夫の登場シーンや役割はまるで『水戸黄門』みたい。民放時代劇レベルということよ。
駒は架空の人物にしては、ほとんどの歴史上の有名人と知り合いであるばかりか、話の筋にまで首をつっこむ。
キャラ自体は面白くなくもないし、ましてや演じた俳優さんに文句はない。
あまりに雑で楽なドラマのつくり方が問題。

要らなかったエピソードたち

光秀の父の話は「麒麟」の話を残したのと、駒の命の恩人だったという以外に意味がない。無駄。

むしろ、斎藤道三を事実上の前半の主人公的なものにしているのだから、「大きな国」と同時に「麒麟」の話もそこに入れたらよいではないか。

斎藤道三とバカ息子のシーンはそれこそナレーションだけでもOKな感じ。
起承転結の「起」の一部をつくるだけでよかった(そのためにそれなりに立派に描く必要はあるが)。それに前半の主要エピソードで、前半の主人公はどうみても道三。
しかもなぜ道三があの信長をそんなに気に行ったのか謎。

ちなみに「大きな国」はその時々で「大きな世」になっていることもあったけれど、キーワードならころころ変えるものですか。
しかも「大きな世」では意味が分からないではないですか。

大した役割もない(歴史上も)当時の足利将軍を二代も、しかもだらだら時間を使って登場させる必要がありましたかね。

入れるべきだったエピソードたち

逆に、「鉄砲」を巡る話が一つの軸になるとばかり思っていたのに、途中でどうでもよくなっていましたよね。「伊平次」という鍛冶職人を見つけだして「鉄砲」をつくらせるはずが、結局その後どうしたのか全く描かれない。

オープニングの野盗たちと闘うシーンからしたら、「鉄砲」が何らかの軸になると誰しもが思って期待するだろうに。

最初は力を入れて書いていた「鉄砲」を巡るお話、一体何だったのか。

「伊平次はどこへいった?」と叫びたい。

人間ドラマがほとんどない

何となく、大河ドラマって、主人公だけでなく多くの登場人物の性格などもじっくりと描く、つまり脇をしっかりと描くことによってより面白さも深みも出てくるものだと思っていた。
でも、このドラマでは、人間ドラマと言えるようなものがない。
やたらとコンプレックスで屈折した男どもが登場する。
しかもそれを吐き散らして終わるだけでまったく深みがない。

これでは人物に陰影など出ようはずもない。

信長にしてからが承認欲求の塊のようで、それを満たしてあげていたのが帰蝶と光秀じゃないの? (ドラマ内で信長が帰蝶は母親だ、みたいなことを堂々と言っていたけれど)実際帰蝶と光秀はお母さん、お父さんにしか思えない。

しかも帰蝶さんは後半でないまま、急に信長に愛想を尽かしてしまうし。

かくもめちゃくちゃでそこ浅いドラマを演らされた俳優さんたちに、やはり同情を禁じ得ないです。

※ちなみに、衣装代のケチり方もすごかったですね。シンボルカラーみたいにいつも同じ衣装の人物が多かった。しかも過去作の使いまわしまで。無暗に金をかけろとはいいませんが、もう少し工夫が欲しいですよね。本当に、民放のテレビ時代劇みたい(今はもうないけど)。


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