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神は取引するのか? 非二元論と引き寄せの法則の狭間で結論のない話を長々と書いてみた

小学校の時は、ノストラダムスの大予言で眠れぬ夜を過ごした。
起きたら、違う世界になってないか?と毎朝期待をする日々。
しかし現実は、日常が繰り返されることにがっかりしていたちょっと変わった子供。(学校に行くのが嫌だっただけ、という説アリ)
そして、死後の世界はどうなっているんだろう?と自分なりにいろいろ夢想する。

そんなオカルト少年だった私も、現在55歳。

たぶん、現実離れした世界に憧れたのは、現実世界での生きづらさを感じていたからだと思う。その想いは、青年期からますます広がり、22歳で就職してからは、ジョセフ・マーフィー博士の著書を一気読みなど、違った意味で見えない世界に魅せられていく。

色んな経路をたどって、今の関心ごとは「引き寄せの法則」と「非二元論(ノンデュアリティ)」の矛盾点。
そのあたりの事を、思うままにまとめてみたい。

では、お暇な方、お付き合いください。


「願望実現」というテーマ

「願望実現」に関わる歴史の始まり

もっと良くなりたい。
あるいは、今の状態から抜け出したい。
そんな思いを持つ人は多い。
それを”カンタンに”実現する方法はあるのだろうか?

シンプルに結論を出すなら、「現実的な努力をしましょう」という事になろうかと思う。実は仏教でいうところの、因果応報というのはそういう意味らしい。
何かを得たいなら、それが得られる努力をしなさい、と。
なんとも現実的です。

けど人は、なぜかその努力だけでは飽き足らず、見えない力に頼りたがる。
その理由は恐らく、人生は理不尽で、人の力ではどうしようもない出来事がおこるからだ。
これを「運」と呼ぶ。
現実世界は理不尽で、様々な事件や事故、天変地異などがおこる。
努力では抗えないこれらのものを何とかしたい。

それが神頼みの始まりだったのではないか、と推察する。

見えない力に頼りたい心境

現代も、様々な神頼みは息づいている。
私がオカルト少年だったころ、父親はかなり現実主義。
霊などいない、という主張をする人だったが、なぜか初詣やえべっさんには必死になって行っていた。
同じ見えないものなのに、霊はいなくて、神はいると考えていたのだろうか?

ところで、私が見えない力に魅せられた理由はシンプルだ。
成功へショートカットされた道があるような気がしたからだ。
たとえば、仕事で成功したいなら、たくさん経験を積み、たくさん学び、たくさん働けばいい。
けど、人は怠け者だ。
1/10の努力で成果をあげる方法や、ビーチでスマホをいじるだけで億を稼げる方法など、成功への近道があるなら、それを見つけたい、という思いが根底にある。
もっと言うなら、人は得ることより損をする事の方が、強く意識を引っ張られる。
この「損をしたくない」という思いが、「近道があるならば、それを見逃したくない」という思いになるのではなかろうか。

だから、ノウハウは高く売れる。
そして、幸福の壺はもっと高く売れるのだ。

冷静に考えてみたら……

実は、私も、神社にお参りをしたり、パワースポットに行くというのは、人並みに好きではあった。ただ、ある時、そういう事から一気に関心を失った。

それは、
神は人間と取引なんてしないのではないか?
と、ふと考えたからだ。

例えば、神社で神さまに好かれる方法みたいなことが書籍化されたりもした。
しかし、もし、全知全能の神がいたとする。
その神さまは果たして、一人の人間の想いに関心を持つだろうか?
たぶん、そんな事はないんじゃないかと思う。

しかし、書籍は言う。
世界をよくすることをイメージすれば、神さまは味方してくれる、と。

ただ、そもそも「善悪」って、あくまで私たちの個人的な価値観の中で作られるもの。人間界で悪い事と言われることが、果たして神の視点で悪い事なのだろうか。単なる自然の営みと捉えることができることばかりなのではないだろうか。

そうなると、神という存在があったとして、それが我々個人の味方をするとか考えにくい。そんな中、お賽銭をたくさんいれたからとか、何かしらの祈りを捧げたからとか、何かを差し出して、何かを得るといった取引が行われるのだろうか?

そう考えると、なんだか急に神社もうでに冷めてしまった時期があった。

では何が世界を支配しているのか?

そんな思考を経て、では何が世界を支配しているのか、という事を考えてみた。
私はなんと、自然の法則が次に起こることを決めているのではないか、と考えている。

自然の法則というのは、基本は物理法則。
ビリヤードでついた球が、それぞれの球にどんな力を与えたか。
その球への摩擦や空気抵抗など。
そんな事がわかれば、動きはだいたい計算可能で、次が予測できるはず。
そうやって、何億年も前から、様々な物理作用が繰り返されて現在に至っているのではないだろうか。


つまり、これまでも、これからも、世界の動きは決まっていたし、決まっている。
それを解き明かす公式を人類がすべて手にしているかはわからないけど、とにかく何かしら働いている法則の中で世の中は動いている、と捉えてみる。

これが、いわゆる「決定論」と言われるヤツ。
そして人間には自由意志はないのではないか、という仮説がある。
これは物理の世界のみならず、脳科学の世界からも面白いデータが出ている。

人が意識的に身体を動かそうと脳が考える前に、すでに身体は反応を始めているという。そもそも、人間の脳は、脳全体を統合する機能があるわけではなく、各機能がそれぞれに動いて、それがあたかも自分で制御しているかのように感じられるようになっているのだとか。

じゃあ、どこから指令が出てるんだろう?
どう考えても、身体の中からではないように思われる。
人類は無意識下でつながっている、とユングは言いました。
もしかしたら、私たちが「自分」と思っているものは、錯覚なのかもしれない、というのが最近の感想。

個人の願望実現において出てくる不具合

話が飛んでしまったけど、願望実現の話に戻ろう。
個人の特定の願望が何かしらの形で、上手く実現するという話があったとする。すると、色々とゆがみが出てくるわけだ。なにしろ、世界は決まったレールの上を走っていると私は考えているので、それを動かすといろいろと波及する問題が出るのではないか、と。

世界は一定の法則で動いていて、前出の決定論をとるならば、その法則を乱す事なんてできようはずもない。そんな組み換えを一個人の意志の力ができるのだろうか。
また、ある場所である願いがかなえられたとき、別の場所ではそのリソースが奪われることはないだろうか。

まあいろいろ考えれば考えるほど、局地的なところで偏った結果が現れると、宇宙全体に起こる引っ釣れのようなものがあるんじゃなかろうか、と思うわけ。

のんきに引き寄せを起こそうなんて言ってて、大丈夫なのか?とおも思うのだ。そこについて、結論の出ない思考を重ねていこうと思う。

「願望実現」の救世主、潜在意識

念ずれば叶う……?

願望実現と言えば、私の中ではジョセフ・マーフィー博士。
人の潜在意識は、そこに刻まれた望みを完全に現実に再現する、というのが博士の主張。そして、願望を潜在意識に刷り込む方法が様々な形で提示された。一番は、リラックスした状態での映像化(ビジュアライゼーション)。

頭に想い描いたイメージ、自分が信じたイメージ、リアルな感覚を持って体験したイメージなどは、潜在意識が勝手に実現してくれるという説。

これはその後、様々な派生種が出来ている。
たとえば、感謝で願望は実現できるという説。
感謝というのは現状を肯定する状態なので、「良い気持ち」である自分の現状に合わせて世の中が現実化するという話もある。

あとは、イメージを刷り込むためのビジョンボードや、想像力を鍛えるための右脳トレーニングなど、様々な方法が流布された。

例えば私は、ある時に、ある車が欲しいという事で頭に思い描いた。臨場感をもってその車を運転するシーンをイメージした。そして、実際に数か月後、私はその車のオーナーになった。
そのきっかけはシンプルで、「よし、買おう」と思ったからだ。
また、そこそこ値段のはる一軒家の購入も、決めたときは「よし、買おう」だった。ローンの金利がかつてより下がっていたので、結局無理なく変えたという経緯がある。

いずれも、思い切ればできることで、車も普通の車じゃなくて、1千万円級の車は残念ながら、イメージしても手に入れることはできていない。
現実的な努力ではなく、見えない力に頼ろうとしているのは、非現実的な効力を期待してのこと。それなのにこれでは、少し残念な限りだ。

一方、アメリカの実業家の間では評価の高い、ナポレオン・ヒルは現実の努力も重視した。現実的な努力がベースにあって、そこに見えない力がサポートしてくれる、というような文脈だ。実際にそれでうまくいった実業家も多いが、実はナポレオン・ヒルの晩年は、ビジネス的には相当ひどかったそう。現実的な努力ができるうちはいいのだが、それができない人もいる。

実は私がジョセフ・マーフィーに傾倒したころは、うつ症状が出て、現実的な努力が難しかった時だった。努力できない人が報われる方法が欲しかったのだ。

引き寄せの法則

ここで近年脚光を浴びているのが、引き寄せの法則。
同じ波動を持つものは引き寄せあうという。
一方、この本質はこのようなものらしい。
何かに意識を合わせて、不快な感情が湧いたら波動がずれている。
何かに意識を合わせて、快な感情が湧いたら波動があっている。
そして、波動があっているものは引き寄せあい、あっていないものははじきあう。

これ、恋愛で見ると面白い。
たとえば、好き同士が付き合うとする。
そのご、片方が相手が相変わらず異性と遊ぶので嫉妬する。
この状態って、相手に意識をすると嫉妬という不快な感情が出てる状態。
そうすると、相手は去っていく。
この原理を体感した人は多分めちゃ多い。
引き寄せの法則かどうかは知らないけど、ここだけは多くの人が体験してるはず。

まことしやかに語られる引き寄せの法則は存在するのだろうか。
この手の問題の難しいところは、因果関係の証明が難しい点だ。
私の車購入の事例にもあるように、本当に引き寄せの法則の力なのか、ただ現実的な活動にちょっとだけ勇気が加味されただけなのか、判然としない。

成功はブーストされる

ところで、ビジネスで成功した人は、何が要因なのでだろうか?
様々な書物に紹介されるのは、奇抜なアイデアと、それを推し進める精神力がクローズアップされがち。ただ、間違いなく「運」もあると思う。

書籍の通信販売を考えた人は、Amazonだけじゃないでしょう。
しかし、結果はご承知の通り。
たまたまYouTubeでブレイクしたYouTuberだって、「たまたま」というキッカケがある人も多い。
同じことを同じようなタイミングで始めたとして、上手くいくケース、上手くいかないケースがあるはず。

それは、やり方とか細かなニュアンスもあろうかと思うけど、実は運が影響している可能性は高い。
この運の良し悪しが、そもそも引き寄せなのだ、という事も言えるかもしれない。ただ、全てがそれで片付くようにも思えないのが個人的な思い。

「思考」というキーワード

引き寄せ系やジョセフ・マーフィー博士の話によると、思考が大事という事が言われていると思う。欲しいものに意識をフォーカスするという話。
一方で、非二元論(ノンデュアリティ)は思考を排除すべしと言われる。

非二元論を勉強し始めると、ここで壁に当たるのだ。
私の場合、非二元論に心酔し、思考に心をとらわれないようにしなければ、と思うわけだが、引き寄せは思考をメチャクチャ使う。
この矛盾はどうしたものか。

ここで、非二元論(ノンデュアリティ)について簡単にまとめておきたい。
非二元論(ノンデュアリティ)というのは、簡単に言うとすべては一つ、ということ。
全ては一つなので、私も、あなたも、この世界も、この世界に起きることも、すべて同じところにある物、と言うこと。

大事なのは、全ては一つなので、あなたも私も区別がない。個人とか、自我という概念を配した世界。

たとえば、私が見ている風景は、「私が」見ているのではなく、ただそこに現れている現象。そもそも「私」の存在は、感覚が生み出す錯覚で、ただ色んな出来事が、起こっては消え、起こっては消え、している。
・・・と、この感覚、ハッキリ言ってよくわからん。
自分がない前提で世界を見ようと頑張り続けて、なんとかそのイメージの一端がつかめる感じかな。

だから、「思考」というものは、「私」の存在を主張するために作り出した幻想だ、と言います。思考は意味のないものなので、そこを乗り越えて、真実を見よう、というのが非二元論からのアドバイス。

自我がないから、欲もない。
さらには、未来も、自分の行動も決まっているので、そこに力みを持ち込まない。非二元論(ノンデュアリティ)の世界観はそんな感じじゃないかと思う。

「思考」における辻褄合わせ

ある一面では、思考が現実を作るといい、
ある一面では、思考は排除すべきという。
双方の主張が正しいとすれば、どう解すればいいのだろうか。

そのあたりの解説は、ネットで検索すると、概ねこんな感じになるようだ。
引き寄せの法則というのは、自我がある前提で、良い人生を手にするための考え方。
非二元論(ノンデュアリティ)は、自我を消失させたところから見た、生き方の処方箋。
つまり、レイヤーが違うんだ、と。

なるほど。
思考は自我に属するという事ですから、その説明には納得感がある気はする。

ところで、この引き寄せと関連して、量子力学を引っ張ってくるのが最近のトレンドのようだ。量子力学というのは、かなり面白い。
未来はある程度予測可能だけど、いくつかの未来が重なっていて、それが確定するのは観測者が出た時点である、という。これまたなんのこっちゃって感じなのである。

すごーくざっくりした理解だけど、どうも人が知覚していることで世界が形作られているという考え方と通ずるのかもしれない。

私たちが知覚する世界は、五感を通してである。
目で見えるものは世界として知覚できるけど、見えないものはできない。
五感で認識できるものは存在を感じるけど、そうでないものは感じられない。

たとえば、旧友が遠くの国に住んでいて、何の連絡も取りあっていない。
私はその友人が今も元気だと思っているから、私の世界では友人は元気だ。
しかし、ある時、旧友の親族から彼が死んだことを知らされたとする。
その時初めて、私の世界の中では、彼がいなくなる。
私たちの世界なんて、そんなもので、知っているか知っていないか、感じるか感じないかがすべてなのだ。

さらに言うと、その事実を思考がこねくり回すことがある。
旧友の過去の記憶を引き出し、彼がツラかった時の事を思い出し、あのストレスが原因だったのかも、と思考が回る。私にとって、そのストーリーは頭の中で現実になる。

ぶっちゃけ、願いは実現するのか?

自然の法則の中にそれはあるのか?

私が常々思っているのは、神とは、自然の法則を人格化したものだという事。日々起こることは起こるし、起こらないことは起こらない。それを「神」との取引を通じて、なんとなくそれがいるような気がして(それこそが救いでもあるけど)、バイアスのある視点で見て、神はいるんだと信じる。

そんな感じじゃないかなー、と思う。

で、本論の「願いは実現するのか?」って話。
まず、大きな視点で見たときに、物事は自然の法則で動いている、と考える。そんな前提で見ていくと、人が何かを望むとか、それを手に入れるとかいれないとかも含めて、未来は予定されてるんじゃないかと思う。

つまり、今の時点を切り取ってみたときに、願望は引き寄せで実現するかもしれないし、しないかもしれない。
たぶん、引き寄せの法則ってのもあるんだけど、それを使おうとするとか、上手く使えるとかも、大きな流れの中では既に決まっている。
だから、結果として「自分が」上手くいくかどうかはわからないけど、決まった形で結果が用意されてるんじゃないか、と思う。

あくまで、決定論がベースなので、これだけ長い文章読んで、結論はそれかよ!と怒りだす人もいるかも。

非二元論(ノンデュアリティ)の中には悦びがある

ただ、どうも非二元論(ノンデュアリティ)を体感できるようになると、もう目の前の事がすべて幸せである、という世界が広がるようだ。
空を見て、木を見て、人を見て、世界を見て、それらがありえないほどに感動的なものであることを悟る。

すでに私たちは必要なものはすべて持っているし、全ては満たされている。
そんな感覚の中で生きることが、非二元(ノンデュアリティ)なんだと想像する。

つまり、もう何もいらないのだ。
だからこのレイヤーに入ってしまえば、引き寄せの法則は不要になる。
そもそも、引き寄せの法則を使えるも使えないも含めて、経験がすでにデザインされている。
そんななかで、あえて遊んでみよう、というのが引き寄せの法則なのかもしれない。

以前、ひろゆき氏が、「生きる目的を探す人って、今が楽しくない人なんだよねー」なんてことを言っていた。
そこから逆算すると、生きる目的っていうのは「今を愉しむこと」なのかもしれない。
それはないものを求めるというより、あるもので愉しむという事。
行きつく先はそこなのかもしれない。

現実世界の中で、あれも欲しい、これも欲しいと引き寄せを愉しむのは経験としてきっと大事。けどそれをやりつくした先には、違う世界がある。
そういう段階を私たちは経験するために、レイヤーの違った生きる知恵があるのではないだろうか。

引き寄せで上手くいく人生であれ、引き寄せが上手くいかないことで別の道をとる人生であれ、目の前の事に精一杯取り組むことが大事なこと。
そんな気がする。








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