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プチカオス

{物神の効果期間及び再充電理論についての検証}:著作権 黒野忍

Fetish-物神、呪物として知られる強力な喚起魔術は物質基盤を中心に大凡数メートルの効果範囲を持つ。そこには霊的存在が物質基盤に束縛され存在し物神は所有すること、また範囲数メートルという呪力範囲で活動する独立存在であり、速やかに任務を成就する。本来は世代と民族の崇拝年数暦で形成される、または流血と命と生贄で存在を許される物神は長期間にわたり活動できるはずであるが、物神を持ったことのある実践者の多くは数ヶ月範囲での効果しかなかったと報告する。その任務が永続的な事柄であるにも関わらず、数ヶ月しか強力な効果を発揮しないのは何故だろうか?この事柄について8年研究と検証を重ねてみた。お断りしておきたい。私は霊視能力があるわけではないのでエーテルの渦が経年変化で消失した等のことは一切考慮しないしどちらかといえばそのような事柄を否定する。物神は妖術でありしかも、幼少期の希望的観測から力源を供給される大人に取っては難しい魔術技法である。物質基盤は喚起を望む存在の姿と似ていない限り効果は無い。次に存在を誕生させるために魔術的意識になり、外に向かい発射し物質基盤に封魂しなければならない。これ以降2つのプロセスがあり1つ目は命令の為に再度魔術意識になる、または存在という任務を帯びている物を作出している時点で命令の意図は含まれているのだから2度目の変容は不要と考える。実際はどうなのか?私の場合2度目のプロセスは効果的だった。また何らかの願望を物神の前で活性化し生贄として使うことが出来る事に最近気がついた。大望であればより相応しい生贄となる。こうして出来上がった物神は3ヶ月ほど現実を捻じ曲げ、奇跡と異常現象、偶然の一致を供給し始めるが3ヶ月過ぎる頃、効果を消失している。これは私達の精神宇宙が絶対的永遠性を持っていないという原理の現われ-如何なる神、霊的存在も自然分解され混沌に回帰する-。回帰したものはリサイクルされ別の欲望の基となり再度私達精神宇宙にフィードバックされる精神的宇宙のとんぼ返りを意味している。これは精神宇宙のエントロピーではなく欲望という永遠の火炎地獄は常に燃え上がりその燃料を必要としているだけにしか過ぎない、この火炎地獄が消えてしまう事、それは人間の死を意味する。生きている限り人は欲望を持ちおぼれ苦しみ喜ぶことが自然なことである。 この物神を永遠に保ちたい場合微力ではあるが画期的な方法論がある。それは供養-供に養う。ことをすればよい。ただしこの場合「儀式的にエーテルを注いだ」という儀式魔術範囲では無意味である。冒頭で述べた通り物神は妖術であるのだから、童心に戻り物神とおままごとをする。お供え物をあげる等良い。
永遠に物神を維持するのと効果を永遠に続かせるのは異なる事で物神は知性を持っているため現状を学習する故に供養された場合、その効果は必要な時に最大に働き不必要な時には効果を示さない。強力な物神を私達は同時に何柱まで使用できるか?この課題について海外の先達は4までとアブラメリン魔術の話を持ち出してまでごり押ししているがそれは「西洋人と東洋人の意識構造の異なり方」という問題で4なのだろう。西洋人は嫌でもキリスト教文化で育ち、日本人である我々は嫌でも仏教文化で育つ。
ことさら妖術は先ほどからもクドクド述べているが、幼少期の才能を先祖返りさせるようなものである。西洋人の幼少時代はおそらく4つで最大なのだろが日本人はもっといける、あるいは4以下なのかもしれない。この辺りはその実践者の才能しだいなのだろうが4柱が最大であるという説は少なくとも私には適していないようだし、騎士の多くも頷いていただけるだろう。問題として狭い住宅事情、物神の為の供養祭壇を4つ以上製作できるか?という話は別だろう。
さて最後に昔、私と供にIOTで学んだ1名のおかしな物神理論を述べたい。
彼はウィルス性物神理論を考えていた。そこで彼は「ピカチュウ」のぬいぐるみを物神として使用すれば世界伝達されるだろうと語っていたが、それはありえない。何故ならピカチュウはピカチュウの原作者の物神として効果的であり我らの個人意識に初めから独立存在をしているわけではない。物神は個人の意識から産まれるものであり他者の意識から産まれた物であってはならない。勿論、盗むことは出来るが盗まれたほうは異常な精神状態に陥るだろう。シャーマニズムな世界ではよくあるように。またこの奇抜な彼はレゴロボットにIEAOU儀式を代わりにさせる等を述べていたがある意味彼は妖術の天才だといえるが別の意味で果たして効果があるのか?またIOTの提唱する魔術=ノーシス意識はそこにあるのだろうかと疑問にも思う。仮にピカチュウをどうしても物神にしたいならば、魔術意識の際、ピカチュウを意識にダウンロードし再配列し個人に適合させ意識がさもピカチュウを独立した存在だと認めるまで、理性を崩壊させることが必要になる。次にピカチュウは外に送り出され物神としてぬいぐるみに閉じ込められるのだろう。
前か述べている通り、IOTではドナルドダッグ召喚が二オファイトの試験課題として与えられたりセーラームーンを召喚する儀式が存在していた。確かに全て有効であるが、これは西洋人意識にとって有益なのだろう。
最後に物神はその物理基盤が損なわれれば効果をなくす。従って洗濯や忘れ物、また落し物には十分に気をつけなければならない。もし拾った人が不幸になれば或いは幸運になれば、その責任は良かれ悪かれ魔術師本人に帰属する。
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{ルーン}Order Maste FATE 0

この際、ルーン文字という神秘的でかつ謎めいた、まるで、文字自体書けばご利益があり、なまくらの剣を魔剣にするような力がルーンにはないとハッキリ断言しておきたい。ルーン文字自体は「西洋人の象形文字」であって英語のルーツとなったものであるという事は確かである。そもそもこの謎めいた魔法文字ルーンは数年前に映画化されたトールキンの指輪物語のおかげで「魔術の地位」を得たのである。それまでルーン文字というものは神秘的であったとしてもマイノリティーなものだったというよりむしろ、「緊張した際に手に人という漢字を書いて飲むまねをする。」と同系列なものだったといえよう。そしてこのマイノリティーがトールキンの指輪物語という魔術とは別ジャンルの「児童文学」とウッチクラフトに再び脚光をというマイノリティーに強引に光を浴びさせようとする風習がかさなり、ずるずると引き延ばされてパワーストーンブーム再来とスピリチュアリズムという心の癒しというビジネスライクな風潮が現代まで続いただけだと私は信じているし、これは日本だけなのかもしれない。

私達騎士団はこのような風潮を完全に無視し「如何にルーンを効果的に使うか?」だけを追求する。従って9つの世界とルーン文字が対応している等という話は、その騎士がそういう体系に従って学んでいればきっとそうだろうが。伝統的にルーンは木に彫られていたという説があるがそもそもルーン1文字1文字を木に彫って、どうやって使っていたのかは解明されていない。この木片を円に向かい投げて、円内に入った文字で吉凶を占う程度の推測がされているが、実は解説本の作者が考えただけのことで、実際そのような使用方法が解説書で残されていたというわけでもなく、口伝継承されていたわけでもない。
お気づきと思うが実際、文字の意味すら確証的なものは無い。実例を挙げてみたい。SOWLOというルーン文字の1つはSOLの語源であるという説、或いは雷という説、太陽の車輪説、トール神のハンマーであるという説。サーペントやスネーク説。どれもこれもSOWLOの意味として文献にこそ紹介されている。トールとSOL(ラテン語)に結びつきは全く無いそしてことさら蛇について北欧神話と太陽は結びつかない。これが何故かユング心理学や最新のスピリチュアリストの意見によって連鎖しているといわれる。私はケツアルコアトルというマヤ文明の話を用いて北欧神話観念をだめにしたくは無いがユンギアンなら喜んで集合的無意識論により世代を超えて結びつけてくれるだろう。このように曖昧で謎めいているかのように演出したのはトールキンとミーハーな運動家のおかげでしかない。そしてこのミーハーを鵜呑みにする事自体が正しくいのだろうが、それは「茶柱が立ったので縁起がよい。」という話を魔術理論武装してまで盲信する姿勢なのだということを諸君は理解できるだろうか?
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{混沌カバラ主義} 著作権:黒野忍

非常に不本意で非常に馬鹿げているがあえて混沌主義カバラを考案してみたい。何故馬鹿げているかを私に問うより日本語文献のカバラの全部の本を最低10回以上読み直してみればよろしい。 まず、3重の無=混沌という見方は撤廃すべきだ。勿論キアですらない。無は無であって、無と語ればもはや無ではない。これがキアだというならばそれはアイン=キアだと述べるに等しくもはやキアではない。なので「思考した事を思考しない結果として見つけた者」のみが知っている。では混沌を10のセフィロトする必要性とは何か?それは私が魔術かバラ好きだからで趣味の延長だ。これをシフトとして打ち立てるのは私の変わらぬ楽しみである。
混沌の大いなる顔:私達が論じて考えれる混沌は1つの可能性の中に潜む潜在的な3選択のどれかである。<はい><いいえ><どちらでもない>または<はいーいいえ><いいえーはい><どちらでもないーどちらでもない>そしてこの3択の1つの答えこそが、混沌の王冠である。混沌の王冠に善悪は無く、王冠を頂く王と女王のみに善行と罪が戴冠式と供に渡される。しかしこの善も悪も同じことであり劣悪な状況下で解りやすく幸福と不幸、嫌な事、良い事に
堕落するが、本来誰が最も悪いのか?何が良いのか?はそれを思考するその人自身の弱さとひがみ、運と性格に由来する。混沌の王冠は初めに、混沌の王をぶら下げ次に混沌の女王をぶら下げることで至高の三位一体を示す力を生み出す。王、女王は戴冠される原罪を持つ為に大いなる原動と終わりの無い悲しみを持つが、究極の王冠とは王冠を下の混沌の国に戻すことである従って初め光あれと述べたエロイムは「それを意図した原動力の中に深い悲しみを」意図している故に4番目に慈悲というセフィロトが配置されるのは救いである。このように至高の3球を混沌魔術の信念に割り振ると混沌というものは創造のフローの中で、質量としての王冠、時間としての知恵、空間としての理解を示しながらどれか1つが欠落すればどれも成り立たない絶対定理を持ってる。そこでどれも真実ではない;とのべる事は前から述べてる通りナンセンスな話で真理という言葉が存在する以上、王冠はそれに一番近い原理であり1にして10という事からもわかるとおり全部が真理として私達に理解されるかもしれない。もっとも究極の真理というのは究極の者だけが理解できるはずなのだ。
--------------------------------------------------------------------------------------{霊視と呼ばれる技術の取得、練習} 混沌の騎士団長 LuxFear
よくヴィジョンを見た。という記録を騎士団で目にする事があります。今私の目の前に、美しい12枚の黄金色の光輝き羽を持った神々しい人間以外の何かがいるという空想をハッキリと見ることが出来たとしましょう。これは空想です。では脳裏にこのような絵図が見えたとしましょう。これもやはり空想です。
そしてこれが瞑想中に訪れたとしても私は、ヴィジョンという言葉で神秘的に解釈はしません。もっと解りやすく言いますと、1年以上あっていない人の顔を思い出そうとして、脳裏に浮かんだその人の顔は、思考と試みの空想の産物でしかないです。これをビジョンというならば世界中のクリエーターは皆、ビジョンを見ているといえますし、もっとオナニーする人達はヴィジョンを得ていることになり、珍しいことでも何でもありません。

幻覚は時に幻覚剤を用いれば出てくる錯覚として解釈されていますが、これをヴィジョンという場合、私は納得できます。こうした幻覚剤の使用で無実な人がヴィジョンを得ているジャンキーのような屑に殺されている訳ですし、そのジャンキーは、被害者を悪魔やモンスターだと幻覚剤のおかげでハッキリと見ているわけです。瞬きを100回使用がモンスターとして知覚されているのですから、もはや空想でもないしオナニーのイメージでもありません。そして私はこういう幻覚剤を使用している魔術師も「ユーザーはユーザであるかぎりケミカルルーレットの当りが必ずや訪れる。確立なんてどうでもいい。いつか当る。1億歳まで生きていて4000回やってれば大当たりを向かえて1億1歳のバースデーは無い。」という師匠の言葉通りになると思います。私達魔術師が言うビジョンとは、見ているものがそれを完全にリアルだと処理できる視覚映像と付随経験であって、「脳裏をよぎる、浮かんだ」として処理される程度の空想ではありません。もう一度、「自発的なれ勝手であれ見えた空想」とリアルなヴィジョンの違いを例えるならば、勘違いされやすい例題となりますが夢と空想の違いでしょう。仮に貴方の明日見る夜中の夢で貴方の親しい誰かが貴方を叩いたという設定の夢を見ます。おそらく貴方は寝てる最中に夢だと自覚しない限り、その夢がリアルだとしてみているわけですし、もしかしたら痛み、衝撃等の感覚も得ていると思います。私達魔術師の言う霊視は、相当どぎつい物で仮にもしその魔術師が霊視のエキスパートで、仮にもし精神不安定なのに魔術を行っていたならば、屑のジャンキーと同じ結果に遭遇することが有得ると思います。もしかしたら両親と仲が悪く、ビジョンを見てるとき両親がベルゼバブとパイモンだと見たならば、飛び降りて死ぬか逆に両親を短剣で殺害するかになると思います。騎士団では「精神不安定な実践者」は騎士になれたとしても騎士を卒業することは出来ません。何故ならば幻覚剤の使用者が引き起こす悲惨な事件が、幻覚剤なしにひき起こる可能性を持つからです。こうも書くと「霊視なんて出来ないほうがいい。」と思われるかもしれませんが、残念な事に出来なくては混沌の吐き出す不安定な滓であるエーテル領域の魔術は行使できません。迂回して通ったとしても迂回しなかった魔術師のほうが数段と技術的に上に言っているでしょう。そしてこの練習はとても簡単に行えるもので、誰もが霊視能力を持つので選ばれた能力でも特殊力でも何でもありません。直系5センチ以上の黒円盤の形をしている紙なれなんであれを無思考のまま見つめる事を毎日繰り返すだけです。勿論5分10分では永遠に霊視能力等は得ることは出来ません。誰にも邪魔されない時間が25分以上必要です。そして最初の数ヶ月、実験時間の大半は心のおしゃべりしかないという事も確かです。黒円盤が白い靄で隠されるのは、残像現象ですし、その霞が発光したり回転したり千切れたりするのは、集中の限界を示しています。精神の編集者は「1つの事に集中させない。」というルールに従っていますので、霞を千切ったり、回したり爆発させて、貴方の集中を「黒円盤ではなく、霞のほうに」誘導しているだけです。そしてまた数ヵ月後、全く見たことも無い風景や人の顔がハッキリと見えます。この際もはや黒円盤などは存在せず目の前に見ています。そして目を閉じようがこの映像は見えています。これは夢を見ている現象と同じ事ですが実験中の騎士が十中八九この段階で開発終了として辞めてしまいます。
黒円盤はあくまでも集中の方向性を示す器具でしかありません。この方法は伝統的な透視の開発方法ですが、蝋燭の炎や水晶球、テレビモニター、ファインダーでも同じ方法で練習することが出来ます。黒円盤が優秀な理由は火の心配や光の屈折、背後の本棚の映り込み、極度な目の緊張を回避して練習できるからです。風景を見つめることに成功した騎士は事前に用意した印や呪文により占術を行うことが可能です。また本当にエキスパートとなった場合、対象者を直接見つけ見えない手で殴り飛ばすことも可能となるでしょう。勿論これは誰にでも出来る事で、何故エキスパートになれないのか?は実験時間の短さと経験年数の無さだけだと思います。そして優秀な大騎士、司祭、術師ならば、単純な意思疎通を黒円盤で行うことが可能です。この場合、黒円盤の周囲には音のなる小さな鈴がついていることが望ましく、伝えたい場合、黒円盤を通じてこの鈴を見えない手で揺さぶればよいわけです。情報を解読したいならば鈴が鳴った黒円盤を見つめればいいわけです。同様に貝を耳に当てて音を聞く事にも騎士は挑戦し霊聴も鍛えるべきです。ビジョンという言葉を言うのは簡単ですが、これを物にしようとするとき6ヶ月以上最低でも3年のとても退屈な毎日の習慣の積み重ねが必要であり、騎士の皆さんは何故かこの3年後のビジョンを見たくないと練習を怠る習慣を得ています。

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