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被害者意識と毒矢─和合と過去の昇華─

仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この被害からの 卒業
闘いからの 卒業

…という替え歌はさておき、久々のnote投稿です。


最近「被害者意識」って言葉、よく耳にしますよね。自分にとって大きなテーマだったんですよ、とは言っても因果応報、自作自演、トラウマ、アダルトチルドレン…これらの言葉を必死に検索したり追ってみても卒倒するほどの誤用であったり、明確に言語化されていないものや「カルマ」などと言い不安を煽るインチキ療法の草刈り場になっています。私の感覚では骨の髄まで消化も昇華もされず、腑に落ちるものが何一つ無かったんです。こんな風に過去の私のように未消化状態で途方に暮れている人って意外と多いのではないのかな。だから私の身体で消化した言葉を自分のために、誰かのためにもこうして残そうと決めました。
実際「あなたってアダルトチルドレンですよ」と言われて、そうだったのかスッキリー!ってなりますか?それで生きやすくなる人もいると思いますが、人は思考に関しては機械ではないし、アイデンティティを武器にした瞬間、物理的に力を振りかざす人と同等になります。だからこれらの分類は私は大嫌いなんです。と言う私もアイデンティティを武器にしたところで何も変わらなかったし、むしろ悪因になっていて途中から「人はこうやって親子世代でループしていくんだ」とハッとしたし、宗教ではそれを因縁と言う。あなたの周りのアイデンティティを武器にしている人は幸せそうですか?と問われたら答えは出ますよね。

なぜか職場や対人の環境で「いつでも自分ばかりが怒られる」「理不尽な対応をうける」と思っている人にも合った記事だと思います。

毒矢のたとえ


人の認知は、因果応報について拙速な誤認をしがちで、本当は何の関連もなくても、ほぼ同時に生じた出来事の間には何らかの関係があるものとして認識しようとする、そうしないと消化不良を起こして気持ちが悪くなるからです。注意を入れるとこれは因果応報の否定ではなく、私たちが因果応報だと思っているものの実際は取り留めのない議論であることが多い。

中阿含経の「毒矢のたとえ」
男が歩いていたところ何者かに毒矢で射られて、心配した周りの人たちが医者を呼んできて男に刺さった矢を抜こうとしたが矢を射られた男は「誰が矢を射たのか?目的は?毒の種類は?それが分かるまで矢は抜かない」と頑なに治療を拒み、原因に拘るがあまり治療を後回しにした男は毒が全身に回り真相を明らかにできないまま無念のうちに死んでしまった。
中阿含経


ここで大切なのは、この話は私たちにも言えることで私たちは仏様の目から見れば、一人残らず下根といって仏道修行の能力・素質が乏しい者で、深い道理を頭で理解するは中々出来ませんと。しっかりと向き合い、限りある人生を喜んで生きることが仏様自身の願いでもあると。
解決したと思ってまた傲慢になって結局また同じ問題に悩まされるのはそういうことなんでしょう。

「人はどこから来て、どこへ行き…なぜ生きるか、どう死ぬか…宇宙の仕組みは…」という厨̶二̶病̶全̶開̶ 哲学的な問いも、毒矢のたとえでは目の前の課題に目を背けないで地味に地道に当たり続けなさいという意味とも取れます(笑)

毒矢は時代の移り変わりに合わせて姿形を多種多様に変えて今もなお人々を毒に冒し苦しめていて、現代ではいきなり毒矢で射られるなどの物理的乱行は殆ど無いが、目に見えない毒矢が蔓延っている。もし何者かに現代の毒矢を射られてしまった場合は、犯人の特定や被害の範囲を確認する前に傷を応急処置して癒すことが最優先で、毒が心を浸すくらいに溢れているのであれば遮断すれば次の毒矢は飛んでこない。

だが毒矢のたとえから見えてこないのは毒矢の毒に耐え忍んだ後、人の性は因果応報を求め報復を果たさんと憎悪を募らせるものでこれでは結論に至らない。毒矢を受けた人が今度は毒矢を放つ者となり、どこかで毒矢の連鎖を止めなければならないのだが、毒に耐え忍んだあと泣き寝入りをすれば良いかというとそれもまた不憫で救われない。
被害者意識はこの毒矢だと思っています。

被害者意識と死の受容のプロセスはフラクタル

そもそも何故被害者意識から脱しにくいのか?というのは被害者意識からの脱却と死の受容のプロセスがそっくりだからです。
「生き物はいずれ死ぬもの」と頭では分かっていても、冷静に考えて死は悲しいじゃないですか。生き長らえることだけが良いこととは思いませんが、自然の道理だけでは中々受け止めきれないのが人だと思います。逆に言えば、被害者意識が皆無と言えるような人は身近な人の死を何度も経験した上で死の受容ができるようになったんでしょう。経験しても無意識下でずっと受容できないままでフラッシュバックを繰り返している人もいます。
「全人類絶滅してまえ」と思っている人は、それこそ毒矢がずっと刺さった貪瞋癡の毒が全身に回った状態です。毒矢を全人類に向けている状態。
フィンクの危機モデル」も死の受容と似ています。

死の受容とは?

キューブラー・ロスの死の受容過程(悲しみの5段階モデル) 
第1段階 「否認」
患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった部分的否認の形をとる場合もある。

第2段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。

第3段階 「取引」
延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。絶対的なものにすがろうとする状態。宗教(祈りによって死から逃れようとする)や補完代替治療、スピリチュアル、寄付など。※補完代替治療の否定ではありません

第4段階 「抑うつ」
取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。(社会への怒りや陰謀論に浸かりすぎて無気力や抑うつになっている人をよく見かけますが、この第4段階だと思います。第5段階に移るしか手はありません。)

第5段階 「受容」
部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。私は「諦め」と思う。(諦めとも言えるが、原因分析して対策が取れるとなお良い。)
Wiki

死の受容過程を見ればご理解いただけると思いますが、なぜ心理療法が中々上手くいかなかったり、なぜインチキ療法の草刈り場になっているのかよく表れていると思います。

心理学そのものの否定ではありませんが、心理療法やインナーチャイルド療法の諸悪の根源は事実であったとしても何でも過去のせいだけにしたり、その記憶に直面させる。これは受容過程の第2段階をずーーーっと延々と繰り返しているだけです。インチキ療法も不安煽りも第3段階の繰り返し。トラウマやアダルトチルドレンをなんとかしようとすればするほど、頻繁にその記憶や感情にアクセスされ優先順位の高い記憶として扱われるために、いよいよ忘れにくくなります。たまに落ち込むことはあっても気にならないくらい生活を安定させて人生を謳歌しましょうというのも一つの対策にはなる。

生活が安定すれば心が安定する人もいるので、私が好きな先生は人によっては「玄関をとにかく掃除しなさい」とだけ指導したことがあるそうです。生活を(貧しくとも)安定させる方法は、昔からよく言われていることに沢山入っているので、当たり前のことを当たり前に行うだけですが、ここでだらしない自分との闘いになるので、そこでまた昔から言われていることに大切なことがあって、人はずっと同じ課題を繰り返して輪廻しているわけですが、アクセスしなくても良い記憶にアクセスせずに人生を謳歌していると思っても、「性」を変えなければ誰かに毒矢を向けられる毒矢の連鎖は止まらないし、結論に至らない。これを俗に被害者体質と言います。

私は長年の心理療法に挫折した後に栄養療法と出会ったわけなんですが、栄養療法をしても被害者意識が強ければ水の泡だとよく分かっているので栄養療法については一切触れる気はありません(笑) 栄養で元気になって環境を変えても同じような人と環境をまた選んでしまいます。

受容と和合

どうすれば被害者体質から脱することができるのかなと思い悩んでいた時に出会ったのが、合気道の「和合」の精神と、整体の世界です。

合気道と聞いたら「格闘術のシステマみたいなものでしょ?」と想像するかもしれませんが

開祖植芝盛平翁は「合気とは敵と闘い、敵を破る術ではない。世界人類を和合させ、一家たらしめる道である。即ち、合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。これを日常の鍛練を通じて悟らねばならない。」といっておられました。
 端的に申すならば、合気道の真髄は宇宙との調和と和合の道であり、合気道の動きは無理のない球転の動きであり、その確立された中心と調和がもたらすものは、精神(心)と実技(体)の統一なのであります。
合気会

この文章だけ見たら急に「愛と世界平和」みたいな能天気ピッピーお花畑ピヨピヨみたいなこと取り上げたぞ、と思われたかもしれません。

合気道で言う和合は根拠も無く人々は分かち合えるというものではなく、善悪を超えて相手の性質を逆手に取る。やれ男はこうだ、女はこうだと我を通したくなるが、己を“無”にして初めて相手と一体となる。我と相手、敵と味方など無関係になる。「それって自分を殺すってことでしょ?」ではなく、逆手に取るんです。
和合するには理合に合わせた行動を取ることが必要で、理合に合わせた行動を取るには理合を知ることが重要になります。理合とは、ものごとの仕組みのようなものです。

我を通すのか生きる術と捉えるか

人間関係のいざこざや被害者意識は我を通しすぎることが大きな原因、いや根っこと言ってもいいかもしれない。
「我を通す」というのは意見をハッキリ言うことではなく「嫌われたくない」「もっと酷い目に遭うかもしれない」という思い込みも我を通しているのと同じです。

「嫌われたくない」と常に周りにビクビクしていて打ち解けることができず、そのくせ周囲に気を使ってしまう性質…こういう性質の人は「自分はこれだけ頑張っていて、気を使っているんだ!その上に繊細で」と思っていますが、ハッキリ言うと気を使うポイントがズレまくっているだけです。周囲の人間からは仲間意識を持たれにくく、さらにビクビクしているがゆえその環境内での支配関係(上下関係)で常に自然と下に位置する構図ができて、「下」に認識することで攻撃をし始めるようになります。無抵抗だったり「オドオドしていてうざい」という風に思いやすい言わば「攻撃しても安心」という認識を持たれたキャラクターに攻撃は集中しやすくなります。
「モラハラは攻撃ではなく支配」ということを書いたJoeメソッドがありますが、似ています。
ただ、職場と家庭内では対処法が異なるので注意が必要です。

職場は「とにかく正直」でいること

自分の仕事をたくさん抱えている状況で上司から「これ、明日までにやっといて」と仕事を投げつけられたとして、「言われたことをやらないと怒られる」とか「自分の評価が下がる」とかこうした不安や恐怖に怯えてしまい、気がついた時には断れずに仕事を引き受けてしまったら「何でやっていないんだよ!」と上司の怒りを買って、また被害者ポジションになってしまいます。報連相が大事って言うけど、報連相とは正直さのことだったのかと腑に落ちた時のスッキリ感。こういう人は仕事が出来ないと問われたら決してそうてはない、我を通しすぎて結果的に仕事が出来ないキャラのポジションに自ら立場を置いてしまっている。
「他に優先的に進めないといけない仕事があるので、お受けできません。」と伝えるのです。ここで「お願いだから」と押しに負けて「あっ…はい」って受けたらダメですからね!「本当にお受けできません!」って通しましょう。業種によっては無理してでも仕事を引き受けたほうが後々の環境の獲得にもなって楽な場合もあるので、自分が損するだけか環境の獲得になるかどうかの見極めは大事だと思います。
ダメンズウォーカーの女性も押しに弱いところ”も”問題ですね。

もう一つ例を挙げると理不尽にミスのなすりつけをされたとしましょう。
「私はやってません…」とだけ言ってもオドオドしてウザい+「言い訳するな!」と言われてしまいますし、ただ謝ってミスの訂正を引き受けていたら「こいつはミスをなすりつけても手直ししてくれるからラッキー」と思われていつまで経っても被害者ポジションです。
「私ではありませんので手直しはお断りします。しっかりと次にミスが起こらないように情報共有をお願いします。」と少しトゲのある言い方ですが効果的で、理不尽な要求って意外と拍子抜けするほどあっけないです。また別の被害者ポジションの人がターゲットにされて輪廻を繰り返していくのが世の常です(笑)

子どもたちも「やめて!」と正直に本音を言えない子どもがいじめに遭います。これはいじめの肯定ではありません。「やめてくれ〜」とヘラヘラと笑ってしまったり、「しょうがないなあ」と言ってしまうのはオドオド被害者ポジションです。

これを自覚せずに「自分はこれだけ酷い目に遭ったんだ!」と暴走し始めた時にはもう見てられないほどに全身に毒矢が回ってますよ。毒矢のたとえ、フラクタルで面白い。

男女心理と家庭

職場と家庭内は対処法が違うと書きましたが、職場のようにオドオドせず正直にものを言ったり、何かを言われて内心は落ち込んでいたとしてもポーカーフェイスのように本心を隠して「気持ちが読めない不気味な存在」というキャラになって被害者ポジションから脱するのも手だと思いますが、それが円満なのか?と問われたら微妙なところですし、親子の場合はポーカーフェイス作戦が効きますが、男女だと男女心理が働いているので、本質とは少しズレた対処法になってしまいます。

内弁慶の正体

外面だけが良いタイプは本当の意味で人との接し方がわからない上に、本当に大事にすべき人とそうでない人への対応が逆になっている。
外で気を使いエネルギーを使い、でも内(家庭)ではそんな気を張りたくないし、簡単に家族は離れていかない(物理、経済的にも)と分かっているので傍若無人になる。

内弁慶をこのような説明をしている本や記事、人をたくさん見てきましたし、私もそういうもんだと飲み込んでいた時期もありました。
でも、野口晴哉先生の整体論に出会った時に世界が一変しました。合気道の「和合」と似ているんですが、その人の表面的行為ではなくエネルギーの集散を見れば余裕が持てるという整体論で「体癖」と言うんですが、見分け方は最初は難しいし説明も長くなるのでざっくりと。

例えば、腰椎3番を中心とした捻る動きに特徴がある骨格は勝ち負けの感受性中心に生きているので人から言われたことには無意識に反発します。

そういった性質を捉えて逆手に取って利用するのが和合と整体論の融合なのではないかと。

人から言われたことを無意識に反発する人と暮らす人は「これだけ言っているのに何で!?」と頭に来るでしょうし、夫婦関係の亀裂は少しずつそういうところから入る。だから「結婚とは忍耐」と語る人も多いんでしょうが、反抗心を逆手に取るとなると
無駄遣いをする人であれば「いつも頑張ってるんだから、ご褒美に遣っちゃいなよ♡」
お酒好きであれば「いつも頑張ってるんだから、たーーっくさん毎日お酒呑みなよ♡」
育児に協力しない人は協力して!ではなく「育児できない人だもんね、私でやるもん。」
とか良いかもしれない。
これ!という方法論は無いので、相手がどう動いてくれそうか知恵を絞るしかありません。方法論にしがみついた途端に人は予想外のことが起きた時にパニックになります。方法論ではなく、知恵、逆手に取る。

これって両親の関係が良かった人は自然と出来るそうです。それを知った時に家庭環境の威力ってここまで波及するのかとズシッと来るものもありましたが、ここで飲み込まれたら被害者意識のループですからね、自分で勉強するしかないし人それぞれ抱えているものが違うからそれが私の課題だっただけの話なんです。

内弁慶タイプはこの骨格タイプと共通する部分があって「男は女に褒められたくてキツい仕事も頑張るんだよ。女性のこの力を削ぐために昨今の男女平等論は構築されている。働いて男と同様に能力を発揮できない女は時代遅れと思わされている。女の一言で男は何倍も自信を持つ。男が男に褒められて嬉しいのは自分の師匠だけ。」なんて古典的なことを語り出しますが、内弁慶になってしまう心理がまんまと出ています。

仕事で責任を負うことが多くなったり、自分の成長を感じる自負があって「俺はこんなに頑張っている」という気持ちが出てきた時に、家に帰ったら奥さんが笑顔でなかった、立てる、褒める「一言」が物足りないと感じ続けていたらこのタイプは暴走します。「誰のために生活出来てると思ってるんだ!」と言う人とは距離を置いたほうが良いのも事実ですが、その言葉の裏には奥さんがあまり笑顔を見せてくれないことが寂しいと思っているのかもしれません。
「私だって育児と家事を頑張ってるし!」という思いが男女心理の違いでもあり、職場の対処法でも書いたように気を使っているポイントが”お互い”にズレているんです。
ここまで思っていなかったとしても「ありのままのパートナー」を受け入れる人って数少ないですし、自分を変えずにそういうパートナーを求めていたら人が離れていくだけが大半です。
「誰のために生活出来てると思ってるんだ!」と言う人はエネルギー発散が極端に外に向きやすいだけで、優しい人はグッと堪えて「このことが当たり前だと思っているのかな?楽しそうにしていないし寂しい。」と徐々に気持ちが冷めていって、時間が経った時に前触れもなく別れ話を切り出したり、お互いすれ違うようになってしまって。そのことを人は「人の気持ちは移り変わるもの」というポエムで処理するけど、そんなポエムで処理できるかーー!!!…失礼しました、取り乱しました。
結局、同じ性を持っていたら力で向けられるか、黙って人が離れていったり冷めていくかなんです。「こんなこと他の人はあなたに言ってくれないからね!?」という親切は暴走しすぎるとキツいものもありますが、人の言葉の真意をゆっくりと咀嚼していくことは大きな意味を持つこともあります。それでも人は離れていく時は離れていくので最終プロセスの「諦め」しかありません。諦めて、謳歌しましょう。

カップルで「彼氏の話がつまんないんですけど」って愚痴を言う女性がいますが、そもそも自分はつまるようにしたのか?という部分も大切ですし、自分がつまらないなら自分が楽しくしてあげる。「楽しくしてもらう大前提」はお客様根性ですし、男だけ頑張らないといけないという価値観はそれこそ男女平等とかけ離れている気がします。楽しくしてあげられる人は同じような人が磁石のように吸い寄せられますからね。

「夫婦とは鏡。男と女を考えてみい。二つに分かれてしまうから、やれ男はこうだ、女はこうだと我を通したくなる。じゃが、相手を自分として考えれば揉めることはない。相手にとって嫌なことは、自分にとっても嫌なものじゃ。そこを見据え、互いに人間同士として尊重しあえば何を揉めることがあろう。」

お互いに気を使う部分がズレていたんだなと初めて気づいた時にたまに衝突しながらも円満になるのかもしれませんね。

「時代は男女平等だぞコノヤロー」と思った人はイデオロギーか自分の幸せのどちらが大切かを考えてみましょう。相手が気持ちよく動けるような伝え方をするのが得策です。「男を立てる」というのは、ふんぞり返った男を育てるという意味ではなく、上手に男を立てると、女が望む男になるという話。女性はずっと楽になるし、男性も幸せになって円満という。

上手く立てることが出来なくてぶつかり合ったあの人、ごめんなさい。懺悔しときます。

要するに何事も我を通すか、生きる術と捉えるかです。

とは言っても、世の中自分にとって本当に理想で素敵な人はごまんといるので、あまりにも苦痛な場合は毒矢を抜いたあとに自身を見つめ直すのも良いと思います。離れてみて、時間を経て初めて分かるものもありますから。

長々と偉そうに語りましたが、私がこれらを腹で理解してできるようになってきたのは、ごく最近のことです。本当にごくごく最近。今も十分にできているわけではないです。
でも、だからこそこうして言葉に残そうと思いました。スッキリしました(笑)

あっ、「卒業」の歌詞ってこうして見ると色んなことと繋がって面白いですね。被害ではなく支配って言葉を選んでいるあたりも。所詮ただのオタクの過剰解釈に過ぎないので天才はもっとシンプルに理解しているかもしれない。不器用なりにこれも過程の一つだと思って楽しみます。

誰かのお役に立てれば幸いです。

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