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遺伝と才能について

家庭環境と子どもの読書体験、読書体験と学力の話について書いたが、今度は遺伝の話についても書いておきたい。

学力や才能と遺伝に関係があるのは否定できないと思う。

親がスポーツエリートの家庭の子は、小さい頃から身体機能に優れ、スポーツで才能を発揮することが多い。大谷翔平などは典型的である。環境的な要素もあるだろうが、素質についても無視できない。

学業に関しても同様である。

しかしながら、こういう話は、日本ではあまり歓迎されない。何事も「努力」で何とかなる、否、何とかすべきだという考え方が支配的だからである。

少年ジャンプのキーワードは、昔から「努力、友情、勝利」である。仲間と協力しながら努力を積み重ねて、難敵に打ち勝つというワンパターンなストーリーを繰り返し繰り返し、手を変え品を変え提供し続けているだけだと思うが、決して読者に飽きられることはない。日本人はこういうストーリーが大好物なのである。

でも、努力すれば何とかなるという考え方は、ある意味、とても残酷である。成果が得られないのは、努力が足らないからだというのと同義だからである。

「頑張れ」という言葉も要注意である。既に頑張っている人に、さらに頑張れと言い続けるのは、とても残酷な言葉である。どこまで頑張れば良いんだよと心の中で悲鳴を上げている人だっているはずである。

死ぬほど練習すれば、皆んながJリーガーになれるわけでも、プロ野球選手になれるわけでもない。毎日100キロ走ったら箱根駅伝に出場できるわけでもない。そんな無茶な練習をしたら普通の人だと故障するであろう。

それと同じで、一生懸命に勉強したら、全員が東大に入れるわけでもない。まあ、大学受験を突破するだけならば、受験テクニックや要領で何とかなる要素も否定できないが、それでも定員が決まっている以上、希望者全員が合格することはない。各種の資格試験も同様である。どこかで適性とか向き不向きが作用することになる。

スポーツと学力の話を書いたが、他のどんな分野も同じである。個々の人間が何に向いているかは、それぞれ違う。どんな才能を持って生まれたかは、誰にもわからない。だが、親からの遺伝というのも決定的ではないまでも、無視できない要素であるのは間違いない。

それぞれの適性を活かして、伸ばしていくことは、とても自然の道理にかなったことである。「ギフテッド」という言葉を最近よく耳にするが、スポーツにしても学業にしても、持って生まれた才能を伸ばしていける環境を与えることは、決して不公平ではない。

日本だと、「飛び級」「落第」というのは、何やらネガティブな印象でとらえられがちであるが、むしろ皆んな横一線で型にはめようとする方が不自然であり悪平等なことである。


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