見出し画像

ドラマ「さよならマエストロ〜父と私のアパッシオナート〜」について


1月スタートのドラマも、3月に入り、いよいよ終盤を迎えている。

今クールの民放ドラマのうち、ちゃんと見ているのは、前クールからの「相棒」を除くと、クドカンの「不適切にも程がある」、「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」、それと、本作「さよならマエストロ〜父と私のアパッシオナート〜」の3本だけである。

前の2作品は、昨今の世相を反映してというか、コンプライアンス重視の風潮がテーマであることが共通している(コンプライアンスに対するスタンスは、かなり対照的であるが)のに対して、本作の方は、いわば王道のホームドラマである。

「ふてほど」「おっパン」については、また改めて書いてみたいが、ここでは、「さよならマエストロ」について考察してみたい。

このドラマが始まって、すぐに世間で言われたのは、「リバーサルオーケストラ」のパクリだという話であった。その「リバーサルオーケストラ」の方も、当初は、「のだめカンタービレ」のパクリだと言われていた。

「リバーサルオーケストラ」に関する記事にも書いたことだが、クラシック音楽の世界を扱う以上、多少の似通ったところがあるのは仕方ないし、目くじらを立てるほどのことではないとは思うものの、「リバオケ」と本作は、地方のオーケストラに、世界的指揮者が指導者としてやって来るところとか、ヒロインがヴァイオリンを捨てて、人知れず、市役所で勤めているといったところとか、設定がかなり酷似しているのは間違いない。

この辺りは、制作者側が、「わざと」やったのか、「たまたま」なのかは、不明である。「たまたま」だとすれば、不勉強と言う他ないが、他局とはいえ、たった1年前のドラマの内容を、プロが知らないはずはない。だとすれば、「わざと」であり、何らかの意図をもって、敢えて似たような設定に基づき、別種のドラマを作ってみようとしたと考えるべきであろう。

「リバオケ」の方の主たるテーマは、「オーケストラの成長物語」であり、一旦は、ヴァイオリニストであることをやめたヒロインの、「再生物語」である。一方、本作の方は、オケや音楽は、どちらかと言えば、「借景」みたいなもので、あくまで、「家族の和解と再生」がテーマとなっている。

それと、「リバオケ」の方では、ポンコツながら、一応はプロオケの話であり、ヒロインも幻の天才ヴァイオリニストであったのに対して、本作は、所詮は市民オケの話であり、ヒロインの方も、あと一歩、力が及ばず、プロになれそうでなれなかったレベルでしかない。

和歌の世界に、「本歌取り」という技法がある。Wikipediaによれば、<有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法。主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いた。>とある。また、<本歌とは主題を合致させない。>という約束ごともあるのだという。

そういう意味では、敢えて似たような設定としつつも、テーマをずらすことで、一種の「本歌取り」を狙いに行ったというのが、このドラマの制作者側の意図ではないかと思う次第である。

ただし、それにしても、ツッコミどころは多い。

まずは、主人公の「夏目俊平」( 西島秀俊)である。高校時代までは、まったく音楽に触れたこともなく、野球一筋の生活を送っていたにもかかわらず、たまたま実家の隣に住んでいた世界的音楽家に感化されたことで音楽に目覚めて、それから世界的指揮者に昇り詰めるという設定が、きわめて非現実的である。

「天才だったから」ということで片付けるのは簡単であるが、父親に勘当されて、高校中退で高松の実家を飛び出してから、彼はどのようにして音楽的な修行をすることができたのであろうか。いくら天才であっても、クラシックの世界で指揮者になろうと思えば、正統的な音楽教育を受ける必要がある。音楽大学で勉強するにはおカネがかかる。というか、入学するまでに既に相当のおカネがかかる。それは国立大学である東京藝大であろうと同じである。田舎から家出した高校中退の少年が、どのようにして、そうした現実的な問題をクリアしたのであろうか。

夏目俊平が何歳かは不明であるが、西島秀俊と同年代だとすれば、50代前半くらいであろうか。20年ぶりに日本に戻ったとすれば、30代前半からずっと海外で音楽家として活動を続けていたことになる。ということは、それまでの十数年間くらいは、日本で音楽家としての修行をしていたことを意味するが、その頃の彼が、どのような手段で勉強を続けていたのか、かなり謎が多い。強力なパトロンと出会ったのか、超絶優秀だったので、学費免除の特待生にでもなれたのか。それにしてもである。クラシックの世界というのは、ある程度は基礎的な修練を積み重ねないことには、天賦の才を発揮する機会すら与えられないものなのである。

ヨーロッパに出てしまえば、日本の音大の学歴などは、あまり関係がない(というか、あまり知られていないから、たいして評価されない)し、実力だけがすべての世界である。彼の地のオペラハウスで、カラヤン、ショルティみたいに、「コレペティートル」という練習指揮者から叩き上げるという王道ルートもあるし、小澤征爾や、アバド、ムーティみたいに、著名コンクールで優勝して一発大逆転なんてルートもあるが、そこまで辿り着くにしても、日本国内で、それなりに基礎的な素養を身につけておかないことには、スタート台にも立たせてもらえないだろう。

それと世界的音楽家である「クラウス・シュナイダー」なる人物が、どうして高松の田舎町に、「たまたま」住んでいたのかというのも、よくわからない。そんな世界的音楽家が指導するに足るプロオケが、高松にあるのだろうか。ググってみると、四国にもプロ・アマ含めてオケはいくつかありそうだが、そこまでハイレベルなオケがあるとは、寡聞にして知らない。そういう意味では、主人公の夏目少年が音楽に目覚めるきっかけを作ったとされるシュナイダーの存在自体が、相当に強引な設定である。

あと、5年前のある「事件」がきっかけで、第一線から退いた指揮者が、いくら恩師であるシュナイダーの「推し」があったからとはいえ、ドイツの名門オケの常任指揮者としてオファーされるという話も、無理があるように思える。音楽の本場であるということは、競争相手も山ほど存在することを意味するからである。

主人公の娘である、「夏目響」( 芦田愛菜)にも、いろいろと謎が多い。20歳ということは、高卒で市役所職員として採用されたのであろうか。5年前まで、ヨーロッパにいて、ヴァイオリニストとしての勉強をしていたということであるから、それから日本に戻って、日本の高校に編入したことになる。よほど日本の学校教育に馴染めず、大学進学を諦めたのかもしれないが、それでも帰国子女枠で大学進学くらいできそうなものである。画家である母親(「夏目志帆」( 石田ゆり子))の稼ぎでは生活が苦しくて、まだ高校進学前の弟がいることもあって、大学進学を諦めて、堅実な公務員としてのキャリアを選択したのか。そのわりには、いくら田舎とはいえ、わりと大きな家に住み、母親はアトリエを別に借りており、生活に困窮しているようには見えない。家は母親が実家を相続したものであり、世帯収入は決して多くないということなのだろうか。

いろいろ書いたが、まあ、ぶっちゃけ、ドラマ制作者側が、単に芦田愛菜をヒロインに持ってきたかっただけなのだろう。ただでさえ童顔で背が低い芦田愛菜を、大卒で20代半ばの設定にしたら、それこそ違和感しか感じられなくなるからである。

細かい設定にツッコミを入れていても、キリがないので、この辺でやめておくことにする。

それよりも、そもそも無理があるなあと思うのは、父娘の不和の原因である。芦田愛菜演じる娘の響は、父親の俊平に対して、始終、他人行儀であり、ツンケンとしているのだが、それの原因となる5年前の「事件」というのは、コンクールの決勝を辞退して逃げ出したところで事故に遭ったのである。つまり100パーセント自己責任であり、父親の俊平には少なくとも直接的な非はない。

それなのに、俊平が責任を感じているのは、要するに、天才である自分が、凡人である娘の辛さを理解することができなかったからということしか見当たらない。

娘の響が、ヴァイオリンを懸命に練習していたのは、指揮者である父親といつか同じ舞台に立って共演したかったからである。でも、練習すればするほど、父親の背中は遠ざかっていく。音楽のような芸術の世界では、「化け物」のような連中がゴロゴロといて、上達するほどに、そうした「化け物」と競わざるを得なくなるのだ。

「化け物」というのは「才能の有無」だけを意味するのではない。ドラマの中では、「(才能という言葉だけで片付けるのは)ピンと来ない。何かを表現するために生きている人っているんだよ、その人の中にいっくらでも湧き出る泉がある。それを外に出る方法を探して勝手に疑問もって勝手に研究してとことんのめり込む。知識もテクニックも表現力もどんどん吸収して化け物になる」と言わせている。

一般人にとっては苦しい辛いだけの練習であっても、寝食を忘れるくらいに楽しくて楽しくて仕方がないような人種である。スポーツの世界でも、「努力の天才」と言われる人たちがいる。彼らにとっては努力も努力とは思わず、趣味や道楽のようなものだから、もはや際限がない。イチローとか大谷などであろう。

響は、自分自身はそういう世界の人間ではないとわかったが、父親の俊平の方は、正真正銘、そちら側の世界の住人なのである。ドラマでの響は、俊平に対して、「イライラするよ。才能に恵まれているのに、それをしかるべきところで発揮しない人を見てると」と言わせている。娘の父親に対するイライラの原因は、音楽家としての埋めようがない圧倒的な父娘の距離が原因なのだ。

でも、このようなイライラを父親の俊平にぶつけるのは、そもそもお門違いだし、単なる八つ当たりに過ぎない。弟の「夏目海」(大西利空)から、「思春期か」と言われるのも、無理からぬ話である。

このドラマでは、他にも才能について考えさせられる人物が登場する。俊平のマネージャーである「鏑木晃一( 満島真之介)」と、カフェ店主でオケの最古参メンバーであった「小村二朗( 西田敏行)」である。

鏑木は、元々は演奏家を志していたのだが、俊平と出会ってから、天才を支えることこそ自分の使命だと考えを改めて、俊平のマネージャーになったのだという。歌劇「ドン・ジョヴァンニ」に登場する従僕のレポレッロに自分をなぞらえている。

小村二朗も、音楽が大好きで、いろいろな楽器に手を出したものの、どれも結局はモノにならない。だが、彼のお陰で、地元に音楽が根付いた功績は大きい。また高校時代の俊平が、音楽の虜になるきっかけを知らず知らずのうちに提供していたことが、第8話で明らかになる。

響にも、この2人にも共通して言えることは、いくら音楽が好きであっても、越えられない壁のようなものが間違いなく存在するという冷徹な現実である。「好き」だけでは、どうしようもないのだ。

にもかかわらずである。母校の後輩たちを前にして、俊平は、「好きなことをとことん貫け」という意味の話を熱弁する。これは、ちょっと無責任すぎる発言のような気がするのだが、いかがなものか。

それと、「谷崎天音(當真あみ)」の扱い方についても気になる。俊平の指揮するオケの演奏を聴いて、指揮者を志した女子高生である。俊平も高校生になるまで音楽とは無縁の人生を歩んでいたわけであるが、だからと言って、その年齢から音楽の勉強を始めて、指揮者をめざすことがどれくらいに困難なことであるかについては、俊平自身がよくわかっているであろう。にもかかわらず、単に「やってみたい」というだけの女子高生を安易に弟子にすることが、果たして本人のためになるのかどうか。

母校の後輩たちへの講話の内容にしても、天音のことにしても、娘の響との不和の原因から何も学んでいないような気がしてならない。

もしかしたら、結果がうまくいくかどうか、キャリアパスとして成功するかどうかというような下世話なことは、あまり俊平には興味も関心もないのかもしれない。

まずは、好きかどうか。本当に好きであれば、どんなに苦しくても耐えられる。むしろ、苦しい体験の中に楽しみを見つけられるかもしれない。そうした中に、先ほどの話に登場したような、「化け物」が出てくる可能性がある。いずれにせよ、トライしてみないことには始まらない。成功するかどうかとか、結果を先に考えていては、何もできない。

それは、地面を掘削して、石油とか金を掘り当てる作業に似ている。膨大な失敗例、死屍累々の中から、本当に稀に僅かばかりの成功例が出現するかもしれない。芸術とかスポーツの世界とは、そういうものである。芸術家としての俊平には、そのようなことは当然すぎるくらいのことなのだ。

そういう意味では、俊平の後輩たちへの言葉は、決して「キレイごと」ではなくて、ものすごくシビアな話をしていたということになる。好きなことにトライしてみてください。結果は保証しかねますがという話であろう。

で、響のことについて責任を感じたのだとすれば、それは自分の娘だったからである。他人の子どもであれば、人生を棒に振っても仕方がないと冷静に判断できるけれど、自分の娘に関しては、世間並みの親として、そこに「痛み」を感じてしまって、責任を感じてしまったということである。

芸術家としての自分と、親としての自分の矛盾を解決できず、思考停止に陥ったのかもしれない。

このドラマもそろそろ終わりに近づいている。今日は3月9日で、明日10日が第9話である。たぶん、あと2話くらいでオワリではないだろうか。

響が、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(略して「メンコン」)のカデンツァ(コンツェルトの独奏部分)を演奏する場面があったので、ドラマのクライマックスは、メンコンで父娘共演というような設定になりはしないだろうかと思うのだ。

それを契機として、一度は挫折して諦めたヴァイオリニストとしての道を、娘の響が再び歩み始めることで、父娘の関係も修復される。また、田舎のアマオケでくすぶっていた父の俊平の方も、ドイツの名門オケの常任指揮者のオファーを引き受けることで、指揮者としての第一線でのキャリアに復帰する。僕が予想する結末としては、そのようなところではないだろうかと推測している。

だからこそ、ドラマのタイトルも「さよならマエストロ」となっている。つまり田舎のアマオケを去っていくことは、最初からわかっていることであり、タイトル自体が「ネタバレ」だったというわけである。

まあ、あまりに安直かつベタな感じなので、間違っていたら、ご容赦いただきたい。でも、最近、シロウトが考えたようなベタなドラマが多いのもまた事実なのである。漫画原作のドラマとか、韓流ドラマの焼き直しかと思うようなドラマが増えたこととも関係あるが、日本のテレビドラマの脚本家の力量が急速に低下しているように思えてならないのだ。

<追記>
以下は、3月10日(日)の第9話を見ての追記である。

舞台上での父娘共演ではなかったが、自宅で、父の俊平のピアノ伴奏で、娘の響がメンコンの第2楽章を奏でるという形での父娘での演奏が実現したことで、再び、二人の「長い休み」が終わって、前に歩み出すということで、次週の最終話を迎えることになったようである。

となれば、響は、再びヴァイオリンを弾くことになって、俊平は、ドイツのオケの指揮者に就任するという「落としどころ」になるのであろうか。

以下は、3月17日(日)の第10話(最終回)を見ての、さらなる追記である。

まあ、だいたいは予想どおりと言うべきか。「さよならマエストロ」というタイトルの意味を、最後のシーンで回収するようになっていた。

娘の響は、晴海フィルのコンマスになり、俊平は、晴海フィルを「クビ」になって、ドイツの恩師のもとに旅立つという格好で、丸く収まるというのは、エンディングとしては悪くないと思う。

響にとっても、俊平にとっても、この5年間は、「長い休み」だったわけで、そろそろ前を向いてリスタートするべきなのである。

ただし、フィクションとはいえ、ちょっと気になったことがある。

まずは、いくら将来有望なヴァイオリニストとして嘱望されていたとはいえ、響は、シューマンの交響曲第3番「ライン」を、いつ練習していたんだろうか。少なくとも、晴海フィルとは、「ぶっつけ本番」である。

コンマスというのは、第2の指揮者みたいなもので、指揮者に代わって、細かい音出しのタイミングとかを指示する役割を担う重要なポジションである。今までソリストとしての練習は積んでいたとしても、いきなり初顔合わせのオケ(しかもアマチュア)と合わせるというのは、かなりの荒業である。

ドラマのシーンは、本番の演奏ではなく、あくまで空港ロビーでの「予行演習」だから、あまり細かいことは言うなよということなのか。

次に、仙台における本番会場と、空港との移動距離をどの程度のものと設定しているのか不明であるが(ロケ地は、どちらも仙台とは関係のない場所のようである)、いくら世話になったマエストロを見送るためとはいえ、重たい楽器を持って、あちこち移動するというのは、現実的ではない。移動中に、楽器が破損したら、せっかくの本番が台無しである。

また、同じように俊平の「弟子」である、谷崎天音も、いきなりオケの指揮者として、「皇帝円舞曲」を指揮しているが、ちょっと前まで、海の弾くピアノ1台を相手に練習していたのではなかったか。ピアノ1台と大勢の楽員がいるオケとでは、音を合わせる難易度は全然違うはずである。

こういう感じで、ちょっと雑なところは否めないものの、クラシック音楽が好きな僕としては、まずは楽しめたドラマである。

以上


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?