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小澤征爾について

世界的な指揮者である小澤征爾が亡くなった。享年88歳とのこと。かなり前から体調不良が伝えられていたので、逝去のニュース自体には特段の驚きはないが、心より冥福を祈りたい。

日本人の指揮者が世界を舞台に活躍するようになったことに関して、小澤征爾というパイオニアが果たした役割はきわめて大きい。その点に関しては、どれくらい評価しても、評価しすぎることはないと思う。ちょうど、メジャーリーグにおける野茂英雄みたいな存在であろう。野茂がいなければ、松井もイチローも大谷も存在しなかったかもしれないからだ。

日本人であるオザワには、正統的なベートーヴェンやブラームスは振れないとか、言葉や文化の壁があるオペラは無理だとか、わかったような講釈を垂れる人がいる。たしかに、歌舞伎や文楽の世界に、欧米人が飛び込んで来るのと同じような「無理」があるのは間違いないし、どこまで行っても埋めきれないものはあるだろうと思う。でも、欧米人と同じことをする必要はないし、欧米人とは異なる視点とか感覚を持ち込んだ功績の方を評価すべきであろう。

02年のVPOのニューイヤーコンサートにオザワが登場した際に、「あれはウインナワルツではない」といった具合にさんざんディスられたものである。著名な評論家の著書にも、91年、94年に登場したカルロス・クライバーとオザワの双方が指揮した同じ楽曲を比較して、「(オザワの方は)聴くのに努力を要した」といった意味のことを書いてあったのを読んだ記憶がある。

ウィーン生まれでウィーンで音楽教育を受けた偉大な指揮者を父親に持ち、ウィーンを舞台とする「ばらの騎士」を十八番としたクライバーと一緒にされては、たまったものではない。オザワはオザワのウインナワルツで良いのだ。無理してウィーン訛りを覚える必要はない。

僕が「生(なま)」の小澤征爾の指揮を体験したのは、たった1回だけである。17年3月、京都のロームシアターにて、「小澤征爾音楽塾」の公演で、歌劇「カルメン」の上演を観たのが最初で最後となった。

この時も、年齢や体調を勘案してか、他の指揮者と交代しながら指揮していたように記憶している。オペラ全曲を通して指揮する体力は、その頃の彼にはもはや残されていなかったのであろう。

余談になるが、「カルメン」は僕の最も嫌いなオペラである。既に高齢であった小澤征爾の指揮が見られると思えばこそ、その時も、わざわざ京都まで観に行ったものの、そうでなければ、自ら進んで「カルメン」を観ようとは思わなかったはずである。

「カルメン」が嫌いな理由は単純である、ドン・ホセに感情移入しすぎてしまうからである。真面目で朴訥な彼が、気まぐれで浮気性のカルメンと出会ったばかりに、社会的地位も仕事も婚約者も何もかも失って、人生そのものを棒に振ってしまう。かわいそうで見ていられないではないか。

しかも、その時、僕が一緒に「カルメン」を観たのは、まさにカルメンみたいな女性であった。彼女は、いま、どこでどうしているのであろうか?

まあ、いまの僕には関係ないし、何の興味もないので、もはやどうでも良いことなのであるが。いずれにせよ、ドン・ホセのように身を持ち崩さずに済んで良かった。

それにしても、指揮者というのは不思議な職業である。自分では1音も出さないのだが、オーケストラの奏でる音楽全体をまったく異なるものに変えてしまうくらいの影響力を持つ。それだけではない。優れた指揮者になると、コンサートホールの聴衆までも巻き込んで扇動して、一生忘れられないくらいのインパクトを与えてしまう。こうなってくると、ある意味、魔術師みたいなものである。

オザワ以前の大指揮者、カラヤン、ベーム、ショルティ、セル、トスカニーニといった面々は、オーケストラの支配者であり、圧倒的な腕力で、オケをねじ伏せ、意のままに動かす、強権的な存在であった。

オザワが出現した時期と同じくして、そういった伝統的な家父長的な指揮者とは異なる、もう少し民主的な指揮者が徐々に現れはじめたように思う。年代的には前時代のバーンスタインなどもそういう傾向がうかがえるが、オザワや、彼と同世代のアバド、メータといった指揮者は、オケの楽員を一方的に支配して屈服させる対象ではなくて、互いに協調しつつ、一緒に音楽をつくっていく同志として認めるスタイルである点、明らかに前時代の巨匠たちとは指揮者としてのマネジメント手法が異なる。現在のベルリン・フィルの常任指揮者である、キリル・ペトレンコもそうした系譜に属する指揮者であろう。

もちろん、オザワと前後する世代であっても、マゼールとか、ムーティ、クライバーなどは、あまり民主的な感じはしないし、たぶん前時代の巨匠たちの系譜に連なる指揮者なのであろう。

それぞれの指揮者の性格・気質、持ち味、特性、あるいは置かれた状況等によって、どのようなスタイルが成果を発揮するのかは異なると思うし、正解というか最適解はたぶん1つではない。

経営学の理論にも、「SL理論」というのがある。「シチュエーショナル・リーダーシップ理論」というものである。「人を見て法を説け」という言葉がある。すぐれたリーダーというのは、目の前の部下の現状のレベルや成長具合を見きわめながら、リーダーとしての自身のマネジメント・スタイルを臨機応変に変えられる人である。

オザワは、彼自身が置かれた立場で、最適なリーダーシップを発揮した。そして、それが、人懐こくて、誰にでも愛される彼の気質にも合致していたし、だからこそ大きな成功を収めた。そういう意味でも、とても幸せなキャリアを歩めた人なのだろうと思う。


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