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小津安二郎について

今年12月、小津安二郎は生誕120年・没後60年を迎えるのだそうである。

12月2日のEテレでは、「生誕120年・没後60年 小津安二郎は生きている」という番組が放映されるとともに、NHK-BSでは「東京物語 デジタル・リマスター版」が12月12日(火)に放送される。

僕が最初に観た小津作品は、たぶん、「晩春」だったと思う。もしかしたら、「麦秋」だったかもしれない。その程度のあやふやな記憶しかない。大学生か高校生の頃であり、テレビで放映していたのをたまたま観たにすぎない。

ストーリーは波乱万丈から程遠く、それどころか、たいした山場もなく、婚期を逃した娘が嫁に行くとか行かないとかいった、他人からすればどうでも良いようなことをグダグダと言っているような話である。「なんて、つまらないんだ」と、当時は思った。そのくせ、途中でチャンネルを回しもせず、最初から終わりまで、通して観たのだけはよく覚えている。たぶん、何か他とは違う小津映画の独特の匂い、あるいは違和感みたいなものを感じ取って、それが何なのか、気になってしまったのだと思う。

初めて観た小津映画に僕が感じた違和感、それは主として映像スタイルに関するものであったと思う。よく言われるように、小津映画の特徴的な撮影手法として、ロー・ポジションの多用が挙げられる。カメラをあまり動かさず、まるで絵画のように動きが乏しいシーンが多い。映画である前に、静止画としての美しさを追求しているかのようである。

2人の人物が会話している場面なども独特であり、他に例を見ない。通常の映画やテレビドラマであれば、2人の人物の目を結ぶ「イマジナリー・ライン」を跨がずにカメラの切り返しで人物の顔を交互に撮影する。そうすることで、映画を観る人は、2人の人物が向かい合って会話している場面に居合わせたように感じるのだが、小津の場合、そうした映画の文法を無視する。人物をカメラの真正面からとらえて、バスト・ショットで撮った人物を交互に見せるのだ。小津映画に慣れていないと、違和感しか感じないし、とても間延びした感じ、あるいは「間抜け」な印象さえ受ける。

他にも例を挙げればキリがないが、こんな調子で映像には独特のクセがあり、ストーリーは退屈だし、少なくとも若い頃には、小津映画の良さがちっとも理解できなかった。その点、同時代の古典的な日本映画であれば、黒沢映画の、「用心棒」とか「椿三十郎」、「七人の侍」の方が、よほど面白味を理解しやすかった。どの場面も派手だし、ストーリーが面白くて、ハラハラ・ドキドキさせてくれるからである。娯楽映画の王道である。

小津映画の味わいを少しわかるような気がするようになったのは、たぶん中年を過ぎた以降くらいになってからである。同時に、黒沢映画はちょっと「浅いな」と感じるようになった。これら両者は志向する方向性に違いはあったとしても、それぞれにそれぞれの良さがある。小説にたとえれば、芥川賞の対象である純文学と、直木賞の対象である大衆文学の違いのようなものであろうか。小津映画の方は、派手さもなく、とっつきにくく、監督の意図がよくわからないようなところが多々あるが、何回観ても飽きず、観る都度、何か新たな発見がある、要するに大人向けの作品なのだと思う。

誰か人が殺されるわけでもなく、誘拐されるわけでもなく、ヤマもなければオチもない、別にどうでも良いような物語が、中流家庭を舞台にして、独特の筆致とリズムで淡々と展開されるだけの映画。思想性は皆無。退屈、単調、退行、保守的といった批判をされても仕方がない。実際にそういう批判は過去も現在もあると聞く。

たぶん、小津映画は、人を選ぶところがあるように思う。僕のように好きになる人間は好きになるし、好きにならない人間は決して好きになることはない。趣味の問題と言い換えても良い。

余談であるが、僕は、小津映画に登場する笠智衆、佐分利信みたいなサラリーマンになるのが憧れであったが、残念ながら、彼らのような風格は僕には身につかなかった。時代も違うし、仕方のないことである。

そもそも、小津映画に描かれた当時の大卒のサラリーマンは、存在自体、かなりのエリートなのである。それは、少し後の時代の植木等が演じる無責任男だって同様である。同世代の半数以上が大学に進学する現在とは違うのだ。


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