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音楽の聴き方について

僕はアラカンなので、音楽の聴き方については、アナログレコードの時代から経験してきている。

大学生の頃は、まだアナログレコードが主流であった。当時は、まだレコードは貴重なものという感覚があったので、カセットテープに録音して、普段はカセットテープの方を聴いていたりした。レコードが針で傷むのをおそれていたのである。友だちとレコードの貸し借りもよくやった。借りたレコードは当然にカセットテープに録音したものだ。

そういう時代を経て、CDが主流になり、いまはiPodを経てiPhoneである。僕のiPhoneにはCDに換算すれば、何百枚もの楽曲が入っている。クラシックの大曲、たとえば、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲、「トリスタンとイゾルデ」全曲、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」全曲、「アラベラ」全曲、「ナクソス島のアリアドネ」全曲といった具合。ここまででも、CDでおよそ30枚くらいになる。書くのも面倒だから、あとは省略するが、およそ僕が聴きそうな楽曲は、クラシックだろうが、ロックだろうが、何だろうが、だいたい入っており、いつでも、聴こうと思えば聴けるという状態である。

そうなると、音楽の聴き方が、どうしても「雑」になる。楽劇「ワルキューレ」第3幕の終盤のところ、ヴォータンとブリュンヒルデの別れの場面を飛ばし飛ばし聴いた後、レッド・ツェッペリンの「フィジカルグラフィティ」の最初の方だけ、アナログレコードであればAB面の辺りを、こちらも飛ばし飛ばし聴くとか、脈絡もなく、その時々の感性の赴くままである。

いつでも聴けるから、ありがたみがないというか、貴重なものではなくなり、その時、その場の気分で「消費」している感じである。

テレビ番組なども同様である。見たい番組はとりあえず録画しておいて、ヒマな時に、飛ばし飛ばし見る。速度は1.5倍が基本。ちゃんと見たいところだけ、1.0倍に戻す。面白くなさそうなところやCMは基本的にスキップする。

リモートで自宅時間が長くなっているはずなのに、何でも省いている感じがする。

日経新聞の記事に、「青山学院大学の久保田進彦教授は「デジタル化でコンテンツ入手のコストや手間が急減し、その瞬間の興味でスイッチしている」と話す。特に若い世代は不安定な低成長期で育ち、少しでも時間という資源を有効に使いたい意識が強い。」と書いてあった。

まさにそのとおりだと思う。ただし「若い世代」ばかりとは限らず、僕らのようなオッサンも同様であるが。

昔々ならば、興味を惹くコンテンツは乏しかった。テレビもラジオもない時代ならば、音楽を聴きたいと思えば、劇場に行くしかなかっただろうし、オペラや演劇も同様。家にいたら、本を読むくらいしか娯楽はなかっただろう。一般庶民家庭においては、本だって贅沢品。手元の限られた書物をそれこそ中身を暗誦できるくらいに繰り返し読み返していたに違いない。

経済学の世界には、「限界効用逓減の法則」というのがある。要するに生ビールは1杯目がいちばん美味しいという意味である。

我々も、いろいろなコンテンツが、その時々の気分で、いつでも好きなように消費できるようになってきた結果、そられのものの自分たちにとっての価値がデフレを起こしてしまい、「無駄な時間を過ごしたくない」という気持ちの方が勝ってしまっているということであろう。

しかしながら、「無駄な時間を過ごしたくない」と言いつつも、じゃあ、日々、有意義な時間を過ごしていると胸を張って言えるかとなると、甚だ自信がない。結構、ダラダラと無為な時間を過ごしていることが多い。

つまり、「ダラダラ」は、我々にとっては、「無駄な時間」ではないのかもしれない。むしろ、「ダラダラ」するために、他のことを限られた時間で片付けようとしている、そんな感じもする。

そういう意味では、「ダラダラ」は、僕らが人間らしく生きていく上での、必要不可欠な時間ということなのであろう。


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