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立川談春独演会~三ヶ月連続 人情噺~その二 「文七元結」他(@森ノ宮ピロティホール)について

立川談春の独演会は、過去にも何度か聴きに行っているが、今回は、大阪にて、3ヶ月連続で人情噺の大ネタを独演会にかけるという意欲的な試みの第2回目。第1回目も行きたかったのだが、マケラ指揮オスロ・フィルのコンサートと重なってしまい、泣く泣くマケラを優先した経緯あり。

演目は、10月22日が「子別れ」。今回11月27日が「文七元結」。そして来月12月28日は「芝浜」というラインナップである(10月・11月@森ノ宮ピロティホール、12月@大阪フェスティバルホール)。

談春の独演会は、文字どおりの「独演」、つまり1人で最初から終わりまで喋り通しというのが常である。他の落語家であれば、弟子にも喋らせつつ、休み休み登場するといったスタイルが多いのだが、談春は断じてそういうことはしない。

今回も、前半に「小言幸兵衛」「味噌蔵」、後半に「文七元結」の計3本の落語を出ずっぱりで喋る。トータル所要時間は15分の途中休憩時間を除いて、ざっと2時間半になる。よほどに技量と体力、気力のすべてが充実していなければ、やれるものではない。

談春の師匠の立川談志は、「落語とは人間の業の肯定だ」と言ったとか。要するに、「人間とは、所詮、どうしようもないものなのだ」という意味であろう。だから、彼の主張を裏付けるかのように、落語には、総じて、どうしようもない人間ばかりが登場する。

談春がマクラで語ったところでは、今日の3つの落語に登場する人物たちは、いずれも〇〇ハラスメントの傾向があったり、自身が原因で生活を破綻させていたりと、コンプラ的にかなり問題のある連中であるとのこと。たしかにそのとおりである。余計な発言で他人を不愉快にさせる人物、病的な吝嗇家、腕は良いのだが酒と博打で身を持ち崩した職人といった具合である。

今日の独演会でかかった3つの演目の中では、やはり「文七元結」がいちばん聴きごたえがあった。この落語は、三遊亭圓朝の創作で、幕末から明治初期にかけての江戸で、薩摩・長州出身者が大きな顔をしているのが気に食わず、江戸っ子の心意気を示すために作ったとされているが、談春いわく、この逸話自体が「創作だろう」とのこと。

噺の内容自体は、そもそも不自然であるし相当に無理がある。大事な娘が自分の身を犠牲にして作った50両を、初対面の赤の他人にどうして気前よく恵んでやれるのか。娘の身は再来年の大晦日までに借りた50両を返済すれば大丈夫だが、目の前の文七は死んでしまったら元には戻らない。つまりはたかがカネのために命を粗末にするなというのが長兵衛の言い分である。たしかにそのとおりである。これはまた、博打で作った50両の借金で首が回らなくなっている長兵衛の自分自身に対する戒めでもある。

昨今、わが国において、若い世代の死亡原因の第1位が自殺であり、その水準は先進国中でも最も高い部類に属するという。それだけ「生きづらさ」を感じる若者が多いということであるが、困窮している若者たちに対して、我々は長兵衛のように手を差し伸べることができているのであろうか。そういうメッセージを談春から突きつけられているように感じた。

来月は、「芝浜」である。記憶が正しければ、何年か前にも、フェスティバルホールで同じ「芝浜」を聴いている。

「芝浜」は、談春にとっては格別に思い入れのある演目であるという。中学生の頃、後に師匠となる立川談志の「芝浜」を聴いて激しい衝撃を受けて、それがきっかけで落語家を志したからである。

それくらいに愛着のある演目ではあるが、昨今の世の中の価値観の変化を見るにつけ、従来のままの「芝浜」を口演していても、聴衆には響かなくなるのではないかとの予感もあってか、昨年あたりから「芝浜」の改変を行なっているとか。

談春は、一種の「メタ認知力」に優れた落語家ではないかと思う。「メタ認知力」とは、ざっくりと言えば、「認知を認知すること。 人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。 それをおこなう能力」ということになる。以前の独演会で「居残り佐平治」を演った時、2種類のサゲについて解説しつつ、それぞれ語り分けてみせたことがあった。

落語は過去に創作された「つくり話」である。それを単に師匠から教わったとおりに口演するだけでは、だんだんと現代人に受け容れられなくなる。「メタ認知力」に優れた談春の中には、「もう1人の談春」がいて、現代人が古典落語を演じる意味、それを鑑賞する意味等について、どこか醒めた目で眺めている。演者であると同時に批評家でもあり、解説者でもあるような存在。談春というのは、そういう落語家なのであろう。

談春とはタイプは異なるが、既に故人である桂枝雀なども、自身の中に「もう1人の枝雀」がいるような、「メタ認知力」に優れた落語家であったように思う。ただし、彼の場合は、もう1人の自分からのダメ出しに耐え切れず、結局は自ら命を縮めてしまったのではなかったか。凡庸な噺家であれば、彼は今でも生きているに違いない。

話を、談春の方に戻す。

今回の「文七元結」も、来月の「芝浜」にしても、談春は、現代の我々にとって、当該作品を鑑賞する意味を考えることを求める落語家であり、古典落語が単なる古典、昔の「つくり話」で終わることを許さない。

12月の「芝浜」がどのような変貌を遂げているのか、今から聴くのが楽しみである。

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