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「第一世代大学生」について

「第一世代大学生」という言葉を、最近になるまで知らなかった。

Wikipediaから引用で恐縮であるが、<一般的に両親が大学学位を持っていない(大卒ではない)学生のことを指す。>のだという。カリフォルニア大学バークレー校では、ダイバーシティのデータシートに、「女性比率」、「マイノリティー人種の比率」、「第一世代の比率」、「外国人比率」の4つの数字を挙げているらしい。

つまり、バークレー校のような一流大学においては、親世代以前から大卒であるような家庭の出身者が、いわば「スタンダード」であり、そうではない家庭の出身者は、「マイノリティ」(少数派)ということなのだ。

日本でも、東大生の親の年収は、40%超が1,000万円以上という調査結果がある。年収と学歴の間には、例外はあるにせよ、ある程度の相関関係が認められるのは間違いない。したがって、難関大学の学生については、親世代も相応に高学歴であると考えられそうである。「学歴の世襲化」が指摘されるゆえんである。

いずれにせよ、いろいろな要素が関係して、学歴もまた親から子に受け継がれることになるというのは理解できる。逆に言えば、低学歴な家庭出身者が大学、それも評価の高い大学に進学しようと思うと、かなりの努力が必要であったり、周囲のサポートも必要ということになる。したがって、バークレー校としては、ダイバーシティ推進の指標の1つとして、「第一世代の比率」を引き上げる方針なのであろう。これも一種の「アファーマティブ・アクション」ということになる。

ビートたけしの母親は、「貧乏は輪廻する」と言って、教育で貧困の連鎖を断ち切ろうとしたのは有名な話である。親が頑張るのか、本人が頑張るかは、それぞれの家庭の事情にもよるが、教育自体は、比較的に効果を得やすい「投資」であると考えることができる。めざす大学に合格できるか否かはさておき、勉強したこと自体は決して無駄ではないし、成果は自分の身につくものであるから、プラスになることはあってもマイナスにはならない。

実は、僕も「第一世代大学生」に該当する。両親ともに非大卒である。とはいえ、僕の親世代は戦前生まれであるから、そもそも学校教育制度自体が今とはまるで異なるので、並べて比較すること自体がフェアではない。この世代だと、国民の大部分は小学校を卒業したら働くのが当たり前であったので、旧制中学・高等女学校に入学する時点でかなり恵まれた立場であり、これらの学校への進学率は、現在の大学進学率よりも相当に低かった。ましてや、大学に進学するのはひと握りのエリートであり、しかも女子は最初から対象外である。

僕が大学に進学した頃の大学進学率はだいたい4割くらいであった。今はだいたい6割くらいである。その間、たった40年ほどであっても、時代によって大学進学者の社会での相対的な希少性が異なる以上、大学を卒業しているか否かを、単純に高学歴/低学歴の判断基準とすることが適切とは思えない。同世代の6割が進学する現代においては、もはや大卒という括りで、「高学歴」とするにはやや無理があるような気がする。

欧米だと、大学卒は当たり前で、最低でも修士、場合によっては博士号を持っていて、初めて高学歴と見なされるという。日本の場合、大学を出て、新卒で企業に一括採用されて、そのまま終身雇用、年功序列的な人事制度の枠組みの中で定年まで過ごすことになるので、理系の研究職は別として、それ以外で大学院修了者はあまりいない。企業派遣あるいは私費で留学したり、大学院に進学するのは少数派である。そもそも大学に入るまでの受験勉強が終わると、大学では勉強しなくなると言われる。欧米のモノサシだと、多くの日本人は高学歴とは呼べない。

日本の大学の世界的な評価はあまり芳しくない。たぶん日本語というローカル言語を使って教育しているので、評価が難しいというということは割り引いて考える必要があるが、それにしても、大学入学以降に厳しく学生を鍛え上げるようなシステムになっていないし、社会からもそういう機能を期待されていないのも事実なので、点数が辛くなるのは仕方ないかもしれない。

日本の国力自体が、「失われた30年」を経て、どんどんと地盤沈下している真っ最中である。このままでは、「失われた40年」と呼ばれることになるのも避けられそうもない。1人あたりGDPでは、台湾、韓国、シンガポールといった国々にも負けている。もはや豊かな国ではない。

これまで東大進学者数を競っていたような私立中高一貫進学校の卒業生が、日本の大学ではなく、欧米の有名大学を進路として選択するようになっているという。先日の選挙で芦屋市長に選ばれた26歳の新市長は、灘校から一旦、東大に進学するも中退して、ハーバード大学に進学・卒業したとのことである。

沈みゆく国にとどまり、国際的に評価が低い大学を卒業したところで、先が知れているということなのであろうか。少なくとも、子どもの教育に惜しみなくおカネを使えるだけの余裕があるような家庭であれば、そういう選択をしても不思議ではない。

今週の朝ドラ「らんまん」で、明治時代の東大の様子が描かれていたが、理学部教授のうち、日本人はたった3人だけで他はすべて外国人だという話があった。主人公が出入りを許された植物学教室の教授は、アメリカの大学への留学経験者である。当時の日本では最先端の知識を得ようと思えば、欧米に留学するしか方法はなかったのであろう。そうした状況から徐々に発展して、日本にいながら日本語で高等教育が受けられるようになったことの功績は大きいが、同時に日本の大学のガラパゴス化も進んだ。

いま再び、向学心のある日本人の若者は、欧米への留学をめざした方が良いのかもしれない。ビートたけしのお母さんが、いま生きていれば、あるいはそういう判断をしたかもしれないと思う。教育を、貧困の連鎖を断ち切るための「投資」と考えるのであれば、たとえ借金してでも海外の有名大学に進学・卒業した方が、「リターン」を期待できると考えても不思議ではないからである。

とはいえ、大多数の若者にとって、欧米の大学に留学するというのは、なかなかハードルが高い。短期の語学留学なんかはお遊びみたいなものだが、それなりの評価のある大学をちゃんと無事に卒業するとなると、覚悟もいるし、おカネもかかる。そういうチャンスに恵まれれば良いが、希望者全員にチャンスが与えられるわけではない。

その場合には、日本の大学であったとしても、行かないよりは、行った方が良いと思う。自分の経験を振り返ってみても、そう断言できる。同世代の6割が進学する以上、もはや「高学歴」でもないし、「高等教育」とは言えないかもしれないが、それでも行かないよりはマシである。

というのも、高卒で社会に出るのと、大学に進学するのとでは、見える景色が違って来るからである。視野が少し広くなると言い換えても良い。たいして勉強はしなくても、それだけでもメリットはある。

それに中身はともかくとして、大学卒業資格があっても邪魔にはならない。大学卒業資格があるだけでトライできる国家資格もある。運転免許証と同じようにあれば助かることもあるのだ。

したがって、あまりリスペクトされない大学(世間では「Fラン」とか差別的な呼び方をされるような大学)であっても、行かないよりはマシだと思う。そういう大学に行くと、自分があまり勉強できないことが世間に明らかになるから、むしろ行かない方が良いというようなことを言う人もいるが、それは間違いである。

たしかに高校を卒業するまではあまり勉強していなかったから、そういう大学にしか入れなかったのだとしても、大学生になって、もっと勉強しておけば良かったと反省するのであれば、大学からでも遅くはないから勉強すれば良いのだ。たとえ中学の英語とか数学からでもやり直せば良い。本気で勉強する気ならば、半年か1年もあれば、中学・高校の勉強の復習くらいは十分に可能である。その結果、勉強が好きになれば、もっとランクの上の大学に入り直すとか、編入するという道も開ける。あるいは大学院に進学することもできるかもしれない。

単なる学歴ロンダリングのための手段として、有名大学への編入とか大学院への進学を企てる人が少なくないようである。「note」でも、そういう記事がとても多いのに驚かされる。ロンダリングが目的化するのはあまり意味がないと思うし、そういうので世間は騙されないが、ちゃんと勉強するのが目的であるならば、悪い話ではない。そういう選択肢も、大学に進学することで得られるのである。

やはり、大学は行かないよりは、行った方が良い。ただし、価値があるものにできるかどうかは、自分次第ということである。よほどのブランド大学ならば別だろうが、単に大学に進学・卒業しただけで、何者かになれるわけではないし、オートマチックに何かを得られるわけではない。何度も言うとおり、同世代の6割が大学に進学する時代なのである。

それに、ブランド大学に入っても、安閑とはしていられない。世界においては、大卒は高学歴ではないし、日本の大学の評価は芳しくないし、日本自体が沈みゆく国なのだから。


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