思考・試行・至高
20211115
昔、飴屋法水さんが対談してたのを、急に思い出すことがある。
5年くらい前だろうか、前職の、たしか当時やっていた学校の、フィナーレの企画だった。
飴屋さんを呼んで、所属していた会社の代表とが話をした。
たしか1時間30分くらいは話をしていたような気がするのだけど、よく覚えていない。
ただ、飴屋さんのある一言だけ、妙に印象に残っている。
代表の彼は飴屋さんのことをリスペクトしていた。それゆえに、どうやったら飴屋さんのような人になれるのかを解明したがっているようにみえた。
どうしたら皆が飴屋さんのように考えることができるのかを尋ねていた。
その質問に対して、飴屋さんはボソボソと、そっと、「皆、考えてるよ」と答えた。
かなり前のことだし、前後のつながりも定かではないのだけれど、そのそっとそこに置かれた言葉だけ、忘れられずにいる。
誰もが考えている。
僕の、お粗末な眼からは、何も考えてなかったり、何もしていないようにみえても、それぞれがそれぞれの在り方でそこに存在している。
それぞれの生活がある。それぞれの環境がある。それぞれのリズムがある。それぞれがそれぞれの方法で、考えて、行動してる。
僕の、好き嫌いや正義からすると、それと映らない、むしろ低俗で軽蔑すべき姿でもって、ベストを尽くしてる。
そんな当たり前のことを、へんちくりんな正義感や驕り、承認欲求から忘れてしまう。
誰もが今いる状況の中で最善を尽くした結果が、自分の眼の前に広がっている。
世界の何がしかを変えたいと願う者ほど、誰もがそれぞれの在り方で居ることを、事実として受け容れなければいけない。というか、僕は受け容れたい。
身体は全身で思考し、試行し、至高としてそこに在る。
定期的に飴屋さんの一言を思い出しては、そんなことを意識するキッカケとなっている。
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