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視線を合わせ、共に感じることで深まる己の価値

「安心よりも大事なものは、安全である。」

僕たちはこんなに大切なことを忘れ、利他的な行動よりも自己保身を優先する方向へと、いとも容易く流されてしまう。

本日問いかけたいことは、安心・便利・快適な環境下で、はたして『信頼関係』は育まれるのかどうか?という問題だ。

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「安全を守る人」がもし安心しきってしまったら、安全が守られることはないだろう。

群れを成す動物は、周りへの警戒を怠らず、自分が安心することよりも群れの安全を守るために行動する。

「安全を100%保障することはできないけれど、俺を信頼してくれ、あなたを信頼する」という愛ある関係によって安全が保たれ、そこに安心は全く関係がない。

「自分が安心できるから、あなたを信じます」という人が、心の底から相手を信じているはずがないだろう。

不安に耐えきれなくなれば、信じることを止め、逃げ出すに決まっているからだ。

たとえどんな不安があっても、この人なら守ってくれると信じ、頼り合うしかない。

・・・しかしながら、現代人の多くは『安心できること』をとにかく求めている。

それはきっと、人々が”孤立”しているからだと僕は思う。

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自分にとって守るべき共同体がないから、仲間内の安全よりも、個人の安心を優先してしまう。

「自分はこの仲間たちの一員なんだ」と、共同体の中で所属意識を感じられないのだろう。

社会という共同体の中で、いいね!をしてもらうために周りへいいね!をし、ボタン1つで繋がった気になってしまう。

SNSや信用スコアという技術革新が人と人をより深く繋げることに役立つのは間違いないけれど、浅ましく繋がりやすい感性だけを垂れ流し、誰とも繋がらない感性を心の奥に沈めてしまう。

また、たとえ家族という共同体に所属していたとしても、社会的な負け組にならないことを求められ、家族を安心させるための行動に縛られてしまう。

いつ帰っても自然と溶け込める、ホームベースのような家庭があるからこそ社会という大海原を冒険できるのに、家族を安心させるために社会の中を漂流し、やがて泡となって消えてしまう。

・・・社会的なこの流れは、ますます加速するだろう。

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だからこそ、別の流れを生み出していきたいと僕は思う。

「相手を安心させることこそが、愛だ!」と思い込んでしまいやすい現代だけれど、安心から自由なんて生まれない。

「愛するからこそ、自分も相手もより自由になれる」

…そんな状態や関係性が、愛でしょう?

心地よい関係から外へと飛び出し、また新たな居心地を共に育んでいくその過程にこそ、自由がある。

信じ頼り合うからこそ互いの居心地がよくなるのであって、安心(自己保身)のために、愛を利用してはいけないわけで。

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・・・さいごに、社会学的な見地に触れて文章を終えたいと思う。

僕らは『承認』を必要とするけれど、社会哲学的には、その承認は3種類ある。

1つ目が、「愛による承認」

自分が入れ替え不能な存在として承認され、「自己信頼感情」が生まれる状態のこと。

子どもの頃が典型的で、「お前じゃなくてもいい」と言われ続けたり、虐待をされたりすれば、この承認は得られない。

2つ目が、「法による承認」

自分が権利と責任を持つ存在として承認され、「自己尊重感情」が生まれる状態のこと。

性別や年齢、職業に関係なく等しく扱いを受けたり、人間らしい豊かな生活が保障されるなどの基本的人権を剥奪されれば、この承認は得られない。

3つ目が、「連帯による承認」

共同体にとって貢献的な価値を持つ存在として承認され、「自己価値感情」が生まれる状態のこと。

周りからやらされることではなく、自分の内から湧き上がった力を共同体のために使うことで、仲間から感謝され称賛されることがなければ、この承認は得られない。

・・・現代は、この3つ目の承認を獲得することが特に難しくなっている。

それはきっと、僕らが自分に関心を持ちすぎる環境に置かれているからだ。

「どういった振る舞いをすれば、共同体の中で自分の立場を維持できるのか?」というポジション取りに終始し、”仲間のため”という倫理観に乏しくなってしまう。

倫理の「倫」とは「なかま」のことであり、「理」とは「筋道」のこと。

「こうしたら上司が喜ぶ」とか「こうしたら女子にモテる」とか、一般論的に語られる道徳や忖度ではなく…

目の前の相手が求めていることを知ろうとし、その表情や感性に反応し、自分事にして、相手の中に没入しないと見えない世界観のことだ。

『視線を合わせ、共に感じる』

…そんな気概が重要になる。

なぜ倫理が大事なのかといえば、「自分に関心を寄せるほど、自分の価値が減っていく」という自然の摂理があるからだ。

自分にばかり関心を向け、他人や動物や自然などの『対象』に関心を向けずして、他人にとって意味がある存在になれるはずがない。

現代は、自分に関心を向けさせる誘惑があらゆる形で降り注いでくるけれど、その雨に濡れれば濡れるほど、孤立を深めてしまうというジレンマがある。

そんな時には、世界や社会や日本といったより大きなものに自分の哀しみを重ね孤独を埋め合わせ、浅ましく救われようとしてしまう。

しかしながら、目の前で哀しんでいる人や困っている人に関心を向け、相手が感じていることを共に感じるという、まろやかな姿勢から始める必要があるのだと僕は思う。

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今回の文章は、自分自身に対するお説教のような形で書かせて頂きました。

・・・読んでいただきありがとうございます(*^^*)

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするフォトエッセイです。
※毎週日曜日の夜に更新!

社会心理学の観点から、感じたことを綴っています。

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています!

ゆらりときらめく水鏡のように
他者の魅力を鮮やかに彩る存在でありたい

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