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唯一無二の私を生きるということ

この1週間は『唯一性』と『内発性』について考えていて、高校時代に倫理の授業で学んだサルトルを学び直していた。

そこで今宵は、『自分は何者なのか?』ということについて、学びほぐしていこうと思う。

実存主義の立場を取るサルトルは、「自分とは何者か?」という自己の本質や自由について考え抜いた哲学者。

『実存』とは現実存在を縮めた表現で、『本質』と対比されるものだ。

例えば僕らは、自分を探し求めて占いを頼ってみたり、師匠やメンターの背中を追ってみたり、ストレングスファインダーで強みを確認してみたり…

こうした"外的な確かさ"を求めようとする。

それは、自分という人間の本質を知りたいという欲求や、「いかに生きるべきか?」という道しるべを求めているからなのかもしれない。

自分探しのために、何を信じるのか?は人それぞれで、そこに是非はない。

ただし忘れたくないのは、僕ら人間の『本質』を決めるものは「今までの自分」ではなく、「これからの自分」だということ。

”ワタシ”という人間が、唯一無二のかけがえのない存在でいられるのは、自らの行動によってその本質を変えていくことができるからだ。

サルトルは、これを「実存が本質に先立つ」と表現した。

・・・その反対に、モノは「本質が実存に先立つ」といえる。

例えば「包丁」が食材を切るために作られたのならば、その本質は「切るもの」になる。

しかし切るために作られた包丁であっても、現実には、料理に使う人もいれば人を脅すために使う人もいて、前者であれば「役に立つモノ」という実存になるし、後者であれば「危険なモノ」という実存になるだろう。

つまり、モノはまず本質が決まっていて、それが現実にどう存在しているか?によって、実存が規定されていく。

一方で人間は、生まれた時から医者であるとか、お笑い芸人だとか、何者かが決まっているわけではない。

「病気を治す人」「笑わせる人」という本質が決まっているわけではなく、「医者の家系に生まれた」「芸人の子ども」といったような現実の存在(実存)があるだけだ。

だからこそヒトは、実存が本質に先立つといえる。

『自分が何者であるか?』とは、人生をどう生きて、誰と過ごし、どんな決断をし、何を創造するか?という1つ1つの行動によって、決まるということだ。

占いであれ、メンターであれ、ストレングスファインダーであれ…

「あなたはこうゆう人だね!」と『自分の本質(と思われるもの)』を教えてもらった後に、もし何も行動しなければ、しばしの安心感を得る代わりに、自分を見失い続けるだけになってしまうだろう。


・・・もしかすると、僕らが自己の本質を探し求めるのは、自分が唯一無二の存在であるという『尊厳』を失ってしまっているからなのかもしれない。

それは、誰かから認めてもらうことで外的な確かさを得るのではなく、自分自身に対して「尊いなぁ」と感じるような"内的な確かさ"から、自分の言葉や表現が湧き出てくる、そんな感覚だ。

「こういう表現をすれば周りから認められるから」といった動機づけによる行動は、たとえ自発的であっても『内発的』ではないから、気をつけたい。

現代は、「唯一無二のワタシ」が「みんな」の中に埋没しやすい時代になっているからだ。

SNSのいいね!など、心の渇きに一瞬の潤いを与えるような誘惑は、たくさんある。

特に日本は同調圧力が強く、他者指向に陥ってしまいやすい。

その中で、自己の価値を確保し、尊厳を守り抜くのはとても大変なことだ。

けれど、仲間や友達、家族が困った時に力を貸したり、『利他的であること』はできる。

そうすることで、「自分は唯一の存在だ」と感じられる"ホーム"を作っていくことは、できるはずだ。

それは周りが用意してくれるのではなく、利他的に、自ら踏み出すもの。

もちろん、自分のことを犠牲にしてひたすら利他的であればいいわけではなく、自分が困り事を抱えた際に、周りへ頼ることも重要だ。

仲間を頼ることで、今度はその相手が「自分は仲間にとって唯一無二の存在なんだな…」と思えるから。

仲間の力になりたいと自然に思える『内発性』と、自分や仲間はかけがえのない存在なんだと思える『唯一性』を獲得することで、僕らの『尊厳』は維持されていくのではないだろうか?

…こうした決意を胸に、ふんばり時を逃さぬよう、日々精進したいと僕は思う。

・・・読んでいただきありがとうございます(*^^*)

毎週日曜に更新を続けて、今回が100本目になります!

【軟水のたそがれ】は、僕の内側から湧き出た言葉を、”あの人”の心へ届くように、伝えたい人のことを思い浮かべて書いています。

「1人でも多く届ける」のではなく、「1人に届けばいい」という形。

もちろん、色んな人に読んでほしいという下心もないわけではないですが、僕の文章を読んでくれた方が、これをキッカケにご自身で深く考え、新たな表現や思想が生まれることに価値があると思っております。

そして、添付している写真はすべて僕が撮ったものであり、その写真に宿っている記憶が文脈とリンクするように、選別しております。

言葉は物事を「分ける」のに役立ちますが、言葉にすることによって失われてしまう「情感」もあるので、写真で伝えることも大切にしています。

・・・長くなりましたが、改めて、いつもありがとう(^^)

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするフォトエッセイです。
※毎週日曜日の夜に更新!

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています!

ゆらりときらめく水鏡のように
他者の魅力を鮮やかに彩る存在でありたい








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