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わたしが人を褒められなかったわけ。


わたしは、人のことを褒めることができない人間だった。

「可愛いね」「頭いいね」「すごいね」

口にすれば相手は喜ぶに決まってる。
でもそれができなかった。

そう簡単には認めないぞ
わたしが言わなくても誰かが言ってればいい
むしろ、負けたくない

そう思っていた。

そんな考えが変わってきたのは、大学を卒業する頃だったと思う。

わたしの周りには、「努力」をしていて、その姿を尊敬できる友だちがたくさんいた。

それなのに彼女たち(女子大だったので女性ばかりだった)は、自分のことを謙遜しまくる。

「いや〜自分なんて!」と笑い飛ばして逆に相手のことを褒めまくって話をすり替える。

そんな彼女たちと接していて、最初はまんざらでもないぞと喜んでいたわたしは、いつの頃からか気づいていた。

『プライドを捨てて相手を立てられる人が、本当に強い人だ』ということに。

なぜこんな話を急にnoteに書いているか。

実は今、引っ越しの荷物を減らすために、家に積んである本を読み漁っている。

買うと満足してしまう気質のわたしは、読んでいない魅力的な本が棚に溢れていた。

その中の1冊、『そろそろ会社辞めようかなと思っている人に、一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか』という本を読んでいたときに、まるで昔の自分を表すかのような記載があった。

(※ちなみにこの本は、大学4年生の春休み、今から新卒で会社に入ろうとしている直前に買っている。なんという矛盾!)

「ありがとう」と人に感謝するとき、人はその対象(相手・事象)の存在価値を肯定することになり、そのことは相対的に自分(エゴ)の存在価値を低下させることにつながります。
〜略〜
これは、人を褒めるときも同じことです。

若き日のわたしのことだと思った。

ちっぽけなプライドが邪魔をして、人のことを褒めた瞬間に自分の負けを認めることになるのが怖かった。

そうやって、自分のプライドや存在価値を保っていたかったんだと思う。

まだまだ弱い人間だった。

でも、大学で出会った友人たちを見ていたら、いつしか人のことをちゃんと褒められるようになっていた。

むしろ、褒めた方が回り回って自分にも良いことが分かってきた。(自分だって、褒めてくれた人のことは忘れないし、恩を返そうと思う。)

これは、誰かのnoteを読むときも意識している。

「いいな」「素敵だな」と思う文章に出会ったら、ちゃんと『いいね』で伝える。

ことばを書く才能が羨ましいなって思うこともあるけれど、あくまでも個性であって、そこで競うことじゃないから。

そう思えるようになった。

だからわたしはこれからも、自分の心に正直に、誰かのことを褒めていきたい。

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