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誰かがごはんを作ってくれることにありがたみを感じたのはいつぶりだろうか[西村佳哲さんのワークショップ参加記録/1日目]

2023年5月、西村佳哲さんのワークショップに参加した。兼ねてからずっと行きたかった企画なので、ここで感じたことや考えたことは記事に残しておこうと思う。

この記事は、遠野で初のごはんを食べたときのこと。

毎食てづくりデザートつき。おからドーナツ

ワークショップの間、あるサポートメンバーの方がごはんを作ってくれる。Cさんと呼ぼう。初日、Cさんのごはんを食べたとき、「誰かがごはんを作ってくれたことに、こんなにありがたいと思うのはいつぶりだろう」、と、ふと思った。

日々生活していれば、誰かが作ったごはんを食べる機会はいくらだってある。お店で食べる時、実家に帰ったとき、スーパーのお惣菜を買う時だって、それは「誰かが作ったごはん」のはずだ。でも、そういう場面でのわたしはそんなに「ありがたい」って気持ちをもっていないときがある。

ありがたい瞬間がたくさんあるはずなのに、忘れちゃってるじゃないか。反省した。

わたしがありがたいと思うときとそうでないときの違いは、「作ってくれた人が見えること」と、「作ってくれた人に対して、自分が何らかの精神的つながりを感じていること」、「その人がごはんをつくってくれた事実に慣れていないこと」の3つが満たされているかどうかかもしれない。

誰が作ってくれたかが分かるのが第一条件。スーパーに並ぶお惣菜は、厨房で作ってくれている人がいるのは事実だけど、それを認識しずらい。一方、お店で食べるごはんは、この人が作ってくれているんだな、とわかりやすい。

第一条件が満たされたうえで、自分が精神的につながっている、と認識していると、ありがたいなと感じやすいように感じる。繋がりを感じているのは「自分が」感じていればよくて、相手が「相手と私に」繋がりを感じているか否かはたぶん関係ない。

南伊豆のローカル×ローカルで住み込みしていたときの、ダイちゃんが作ってくれたお米、とか、お寿司屋さんの大将がお裾分けしてくれたゴーヤ、とか、カズさんがつくってくれた麻婆豆腐、とか。繋がりのある人の、顔が見えるごはんを食べていたとき、確かに一人暮らしでは感じない気持ちがあった。

でも、実家でばあばがごはんをつくってくれたときは?正直、南伊豆や遠野でごはんを食べるときとは、感じているありがたみが弱いと思う。
慣れちゃっているからだろうか。だとしたら、慣れって怖い。

南伊豆で、わたしはご飯をつくる側になることが多かった。その人たちにごはんをつくることが何回目であろうと、適当につくったりしなかった。だって大切な人たちだから。美味しいって食べてくれる姿が見たかったから。

自分がつくる側になる時と食べる側になるときの気持ちを、どっちも体験したことがあるんだったら、今の振る舞いってこれでいいのか?と、
だめじゃね?と、思った。

『きのう何たべた?』のケンジよろしく、「うわーシロさんこんな美味しそうなのつくってくれたの?!ありがとう♡」くらいのテンションだっていいじゃないか。笑


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