カワイイの呪い

welongに寄稿した第二回目の記事で、男性としてのジェンダーロールが「出生時に男性と判断されただけ」で押し付けられ、男性(厳密には男性でない人を含む)を苦しめているという話をしました。そのコメントとして興味深かったものの一つに、「“女性は弱い、庇護されるべき存在だから、カワイくいなくてはならない”と身近な大人に言われて育つ」というものがありました。


言われて、はっとしました。男性が「女を獲得しなくてはならない」と刷り込まれているのと同じように、女性も女性であるというだけで「可愛くなくてはならない」と刷り込まれている、そしてそれを欲望している自分と社会からの要請の区別がつかないという点で同じだ、そう思ったのです。

可愛くなりたい。私だって、可愛く、綺麗になりたいです。でもそれはどこまでが自分の欲望で、どこからが社会に押し付けられたものなのだろうと考えようとすると、全くわからなくなりました。今は男性も自分らしい「可愛い」を追い求めていい!と言われている時代ですが、それをわざわざ言わなければならないのは、裏返せば、まだ「可愛い、可愛くなりたい」男性には奇異の目が向けられるということです。しかし女性は可愛くなりたいはずだというのは、ほぼ共通の認識としてあると感じます。

もちろん、男性も自分の容姿に関して夢見るところはあるでしょう。しかし個人差はあれど、女性ほど強迫的に美しさを求めているかといえば疑問です。ネットの記事を開けば「○週間で○kg痩せる!飲むだけダイエット」だとか「全身脱毛○円」だとか、検索してもいないのに広告が出てきて、痩せなきゃ、脱毛しなきゃいけないのかなと毎回思わされます。Twitter上には「美容アカウント」というものがあり自身のポテンシャルと日々の筋トレなどの努力の記録、受けられる施術やメイク、似合う服装について詳細な分析をしていますが、そのほとんどが女性です。

これは私の経験ですが、体重がある一定を超えたり見た目に悪い変化があったりすると、家族からの手厳しい指摘がありました。ファッションについてもそうです。「家族だから言ってあげてるんだよ」という親切心に心はズタズタになり、痩せなきゃという強迫観念で摂食障害も経験しました。家で傷ついた気持ちを外で発散し、私も同級生に対して「この子がクラスで一番可愛い」「美人はそこにいるだけでいい」など今では信じられないルッキズム的発言を繰り返しました。「可愛くいなければならない」呪いを再生産したのです。

厚生労働省のサイトによると、1998年時点ではありますが摂食障害の患者の90%は女性だそうです。本能的に女性ばかりが美しさを求めるということがあるでしょうか、そんなことはないはずです。そもそも「痩せている方が美しい」というのも単なるトレンドであり、社会から押し付けられたものです。私たちが生まれてから今まで、女性は痩せていなくてはならなかった。男性が言う「ぽっちゃり体型が好き」に該当する体型でさえ、健康面から考えれば決して大きめではないのです。

また、別の方から「女性のメガコンテンツ化」という言葉もあり、こちらも興味深く読ませていただきました。(渚さん)

女性が可愛くなればなるほど、女性というコンテンツは拡大していく。ここまでは誰でも想像がつくでしょう。しかし「本当の女性はこうなのです、汚いところもあるし人間なのです」といくら言っても、それが女性にとって人間であるという地位の獲得としてではなく、女性というコンテンツの予告編として、観衆をより湧き立たせる。ここまで視座の高い意見に、正直なところぞっとしました。一読して「そうかもしれない」と思わせる迫力がありました。

女性をコンテンツにしているのは男性だけではありません。男性による女性のコンテンツ化は「性的消費」などの文脈で語られますが、女性も女性をコンテンツ化しています。

1.まず、女性による他の女性のコンテンツ化。男性はモテるかどうか、稼げるかどうかで序列がつけられるとの声をいただきましたが、女性の序列化は「(女性的価値観の中で)可愛いかどうか」で行われます。

2.そして、女性による自分自身のコンテンツ化です。「いかに可愛い私であるか」という目線で、女性は他の女性だけでなく自分自身をもコンテンツ化しているのです。

男性に対する「モテ」という文脈においても「カワイイ」は語られます。容姿に限らず、どういう女性が「守ってあげたい女」なのか「セックスフレンドではなく彼女にしたい女」なのか、たいていは箇条書きのまとめ記事や女性向け雑誌の中で、男性目線での可愛さが列挙されています。

しかし「モテ」を脱却したところで、女性は「カワイイ」の呪いからは逃れられないのです。だって、自分で自分をコンテンツ化しているのだから。

可愛くいなきゃいけない、可愛くいたいの、これは私の意志。

本当に?

それは、社会から押し付けられたものでなかったか。

誰かを「可愛くない」と晒しあげることも

人を比較して「この子の方が可愛い」と序列をつけることも

オススメのメイク方法や安い脱毛の情報も

「私はこうして可愛くなりました!」と大事な秘密を教えてあげることまでもが

「カワイイ」の呪いを再生産してはいないか。

その呪いはいつ受けたわけでもない、ずっとあったものです。そして、ある程度は自分でその呪いを望んでいそうな感じさえする。

「カワイイ」の呪いは、誰かを侮辱しない限りはただちに人を傷つけたりはしないけれど、太ることや老いること、美しさの基準から自分がはずれているかもしれないという恐怖として心を蝕んでいきます。

私はこの問題とどう向き合ってよいかわかりません。女性のコンテンツ化、そして美しさによる序列化は、女性差別でもあり外見差別でもありますが、そのコンテンツ化を(自身をそうすることも含めて)楽しんでしまっているのですから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?