夏が終わったことについて

画像1 夏が始まることとか、夏が終わることについてはどうしてか毎年いくらでも語りたくなる。
画像2 サマー・コンプレックスという造語があることを知った。その観点だと私は案外「正しい夏」を送れている気がしている。
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画像4 今年はレジャーシートを敷いて外でメロンソーダを飲んで、夏野菜カレーも作った。八百屋さんから5kgのスイカを抱えて帰った時は重すぎて日傘もさせなくて、日差しにジリジリ焼かれてたくさん汗をかいた。シャボン玉も手持ち花火もした。
画像5 夏の空は雲が迫ってきて近いけれど、景色は遠く見えることがある。空気遠近法では遠景が青く霞んで描かれるように、夏の景色はどこか青くて遠い。「正しい夏」の手の届かない感じは視覚的な遠さからきているのではないか。実際のところは単に太陽光のブルーライトの量が多かったりするのかもしれない。
画像6 夏のはじめにフィルムカメラを買った。最近は桃と梨を食べた。私は夏を正しく始めて正しく終えようとしている。夏じゃなきゃできなかったはずのことも別にそうでもないことも、濃密に折り重なって青く色づいた空気の中で意味を持つ。
画像7 今日はこの秋初めて長袖を着てみた、その暑さが、それでも夏服ではもう肌寒い瞬間があることが、夏とそれ以外の連続性を感じさせる。そんなんだからきっぱりと終わりを迎えられなくて、まだ夏にいられる気がして、これが最後でもいいやなんて言えなくなるんだ。

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夏の思い出

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