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書くことは愛情表現だった。

私がインターネットで文章を書くようになったのは、今から15年くらい前のことです。友人にすすめられたブログで文章を書くようになって、それから、これまたすすめられてはじめたmixiで、毎日、日記のようなエッセイのような文章を書くように。

その頃から文体について言われることが多くて、自然と、私は自分自身の文体というものを意識するようになりました。

ライターで友人のマツオカミキさんとはじめた、「書くこと」について語り合おうというこの交換ノート企画。今回は、この「文体」をテーマにそれぞれ考えてみようということになり、事前にお互いの文体について思うことを伝え合っています。

狩野さんの文章は優しい。威圧感がまったくない。

ミキティの言う私の文体への印象はこれ。他にもたくさんの感想をもらったのですが、まず最初の言葉はこれでした。そして、これまで、文章について一番よく言われてきたのもこれです。「優しい文章」。

たぶん、本人より100倍くらい多く、私の文章は「優しい」と言われています。これがとても不思議で、それも理由で、私は「文体ってなんだろう?」ということをよく考えます。

なんで不思議かというと、私自身が全然優しい人間じゃないからです。むしろ、どちらかと言えば冷たい人間だと思いますし、文章を書く時にも、優しいものを書こうなんて全然思ってないんです。

だけど、私の文章は優しいと言われる。
なんでなんだろう?

結構長いこと、この疑問を抱えていて、それでも「これだ」という答えが見つけられなくて、「もう私のピュアな部分がすっごく優しいからってことでいいじゃん」とちょっと投げやりに思っていたりもしたんですが、つい最近、もう少ししっくりくる理由が見つかりました。

それは、つまり、書くことが、私にとって愛情表現だから。

先週公開したこのnoteで、ミキティとの会話の様子を書きました。


それから、こちらのnoteでは親友との出来事を書きました。


それで自覚したのですが、自分にとっての大事な人や、大事な時間や、大事な感情を書く時、私はものすごく幸せを感じるんです。「書くこと」を通して、その大事なものを、きちんと丁寧に大事にできたような満足感を味わうんです。

そして、それは、もともと自分にとって大事なものを書くからではなくて。「書くこと」という行為そのものに、対象を大事にするという要素が含まれているんだと思います。だから、たとえば、私にとっての憎い誰かや、つらい出来事や、きつい感情を書く時でも、書いている時間の中では、私は、その対象を、大切に大切に取り扱っているんだということ。

書くというのは、それについてよく考えることであり、よく見ることであり、優しく撫でることであり、慈しむことです。それって「愛」みたいなものですよね?

愛を込めた眼差しで子どもを見つめる母親が優しく見えるように、どんな不良少年でも動物を撫でる姿からは優しさが滲んで見えるように、「愛」を使って書いている私の文章が、優しく感じられるのは当然なのかもしれない。

この機会に自分の文体について考えてみた結果、そんなことを思いました。

ああ、すごくスッキリした。

✳︎マツオカ一言✳︎
文章を書く動機って、苦しみとか、怒りとか、歓びとかいろいろあると思うんだけど、狩野さんにとっては愛情表現なんだなぁ。 ちなみに、狩野さん本人は、わたしから見ればとても優しい人なのだけど、冷たさを持っているのもちょっとわかる(たまにバッサリ切り捨てることがある 笑)


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