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ただ、この生きる痛みから逃れたい 釈行信「常々無常流々流転」No,002 『西念寺だより』平成21年4月号掲載

「我が爲(ため)に広く憂悩(うのう)なき処(ところ)を説きたまえ」
『仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』

 今月の掲示板に書かせて頂きました。この言葉は韋提希(いだいけ)というお妃(きさき)様が父親殺しの息子を持つことになり、またその息子に自分も幽閉されることになって、「どうしてこのような目に会わなければならないのか」と我が身の不幸に嘆いたときに出た言葉です。

 この言葉を選んだ理由は、冒頭に挙げた「ただ、この生きる痛みから逃れたい」という言葉で私自身は韋提希夫人(いだいけぶにん)のこの言葉を頂こうと思ったからです。私が本当に共感を持って自分の感情そのままに仏の説いた教え、仏説(ぶっせつ)を頂けるのはここだと思ったからです。私の感覚、感情で悩みに悩んで結局出てくるところは、ただ、この痛みから逃れたい、どこかここ以外の悩みのないところへ行きたい、というようなことに思います。

 しかしながら善導和尚(ぜんどうかしょう)の頂き方を参照してみると、韋提希夫人は私の思いと同じではないようです。善導和尚がいうには、このときの韋提希の心情は「人生全体が苦であると覚ったことであり、したがってこの世のどこにも安心のところはないと知ったのである」と頂いています。私は「どこかここではないところ」にまだ安心を私の手に入れるところがあると思っているのですから、これはやはり私の勘違いで共感していたようです。それは「特に苦なる世界が身にしみてわかった」ということではないのでしょう。政治不信、金融不信、教育不信、宗教不信、人間不信、たくさんの不信が連なる中でいまだに私は「もっといいものがあるはずだ」と仏説以外にタノムものが目移りするようです。

参照文献   『観無量寿経に聞く』98頁 広瀬杲 著 教育新潮社 出版

  

この悩みの果てから韋提希は仏法に会うわけですが。そうではなくて、悩みを引きずりながら見ないフリをして、痛みから逃げるような、苦しみを処置せず誤魔化すような、より深い迷いへと沈下していく危険もはらんでいるだろう、と思います。そういうのは悩みの果て、限界の話ですから、本人がどうこうできる問題ではないのでしょうが。どっちに転んでも仏さんの真実というものは、そういう迷いの底なしの沈下を飛び越えて一気に私に訴えかけるはたらきだそうです。そこらへんがなんとも…。私の手の中には納まってもらえん仏法です。


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