宗教と死生観

 現代の日本人の宗教観とはどうなっているのだろうか。
 日本は、神々が住む国と昔から諸外国から言われていた。伊弉冉尊・伊弉諾尊・天照・素戔嗚・月詠・八百万の神など日本神話だけで多くの神がいる。それらを信仰するのが神道であった。神道とは「日本列島における民族の形成以来、保持されてきた日本独自の伝統的宗教。日本国家形成以前の部族宗教は、外来の宗教伝統によって排除されてしまうことなく、日本国家の精神的支柱の一つとして生き続けた。宮廷祭祀の確立と記紀神話の成立は、神道成立の重要な契機である。一方、道教、仏教、儒教などの影響を受けてしだいに神道の教理も生み出されていった。また、それとは別に、民俗宗教の中にも神祇(じんぎ)信仰は根強く残存し、神社神道という形をとり、また教派神道へと発展した。天皇家の祭祀としての宮廷神道、神社を中心とする神社神道、年中行事、習俗に見出される民間神道、および教派神道などに分類される。『現代用語の基礎知識2011年版より引用』 しかし、その後仏教が日本に伝来し、藤原氏と曽我氏が神道と仏教どちらを良しとするかで争い仏教が勝った。その後、しばらくは仏教が一本だったが戦国時代になるとキリスト教が伝来し、開国後は、宗教より国粋主義が強まった。
 そして、現在は、初詣は、神道の神社にお参りに行き、仏教のお寺に除夜の鐘をたたきに行く。亡くなった人の供養は仏教のやり方が大多数だ。12月25日はキリスト教の生誕祭・車などのお祓いは神道と正直、宗教観がめちゃくちゃで都合のいいところしかとっていない気がする。
 一番宗教観が動いたのは、戦後であろう。戦後は天皇の人間宣言があり、国粋主義が衰えたが、仏教が根深く、キリスト教は少し残っていた。「南原繁―戦後日本の教育の行方に大きな舵を取った人である」『さまよえる日本宗教 山折哲雄』この人は「公立学校においては教師が児童や生徒にたいし自分の立場から宗教を教えることは不可能であり、また教えてはならぬことだ。むしろ、私が望む最大限は、教師がたとえ自分が無神論者であったとしても、宗教の世界はこれを徒らに否定し去ることはなく、むしろ大切に空白のままに残しておいてもらいたいことである。」『さまよえる日本宗教 山折哲雄』といっている。
 だが、空白のままだとどんな色にも染まってしまうのでないか。実際、GHQの最高司令官のマッカーサは大勢の宣教師を日本に送り、歴史上初めてキリスト教の指導を行った。この時点で、南原が訴えていた「空白」は空白ではなくなってしまった。ここが現代の都合の良いとこ取りのような宗教観の迷走の大きなきっかけだと私は考える。キリスト教の指導をしても、神道・仏教・国粋主義は残ってしまう。いやなことが別のもののよいところを持ってこようとするのは人間の心理だ。一つの宗教に拘れというわけではないが、好いとこ取りばかりしていたら、いやなことが受け入れなくなってしまう。宗教とはもともと精神的な救いであり、その過程には苦難もある。だが、現在の日本のような状況では苦難を乗り越えられる気がしない。今一度、自分の経験を振り返って考えて、自分の考え方の芯を作る必要性があると思う。

 広井良典さんは、現在の死生観そのものが「空洞化」していると言っている。死生観とは、広辞苑第六版で「生と死についての考え方。生き方・死に方についての考え方」とある。しかし、今日の日本では、いつそのようなことを考えることがあるのかと、空洞化が著しい若い世代として言わせてもらいたい。私は、若い世代であるが、過去に様々なことがあり、広辞苑で定義されているような死生観を考えたりしていたこともあり、両方の状況がわかる気がする。
 私は、「生」よりも「死」について色々と考えていた時期があった。理由は割愛するが、考えていた内容は、死後の世界・死んだあとの現世に与える影響だ。哲学の教科書の第一章の題は、「最大の哲学問題は「死」である。」と書いてある。初めてその本を手に取ったときの私はまだ中学一年生だったが、ひどくがっくりしたことを覚えている。当時の私は、自分で考えてわからなければ本が答えを教えてくれると思っていたからだ。しかし、読み進めてみるとその理由がわかった気がする。哲学は屁理屈だという人もいるが、それでも理屈なのである。今の私もそうだが、どうしても「死」について理屈で考えてしまう。しかし、「死」という概念は感覚でとらえるのもではないかと私は思う。哲学の教科書に「幼い子を病気や事故で失った人に対して「五年前はその子がいなかったわけだからその前の生活に戻るだけで不幸ではない。」」という部分がある。それまでの流れは省略しますが、この一文を見て納得できる人はほとんどいないと思う。ペットなどでも同じで
あろう。だが、今の日本には、肉体の活動が止まってしまった生き物に対して、私はあったことがないが「直せ」ば動くと思っている子が少なからずいるようだ。だが、その気持ちは分からなくもない。よく言われる「現実とゲームの区別ができない」状態ではないかと思う。私がやっていたゲームで陣地ゲームがあるが、味方のユニットが死んでしまったら電源を落として、セーブデータからやり直す。そうすれば味方ユニットは生き返る。それと同じように現実をとらえていると思う。
 それ以外にも考えられる要因は、若い世代になればなるほど「死」に触れないのではないかと思う。幼いころからペットを飼っていたりすればまた話は違うだろうが、人間だけで考えてみると、医療の発達などによりお年寄りもかなり長生きしていると思う。そうすると幼いころに「死」に触れずに成長していき、先ほど言った「ゲームと現実が区別できなくなる」状態に拍車がかかるのではないかと私は考える。
 「生死観の空洞化」が問題だと言っているがこれは、経済成長などにおける一種の副作用ではないかと私は思う。
 引用文献「哲学の教科書」中島義道著 講談社学術文庫
 参考文献 さまよえる日本宗教 山折哲雄 中公叢書