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#115 現地収録:大宰府政庁跡地+令和発祥⛩坂本八幡宮より

2021年9月21日中秋の名月の日
福岡県太宰府市の大宰府政庁跡地で収録をしました

以下、アクセスの様子の写真です。

西鉄都府楼駅で下車。徒歩で現地に向かいます。

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駅を出たら、右手の橋を渡ります。

下を流れるのは御笠川。

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突き当たりを右へ。歩道橋を渡ります。

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👆の写真の向こう側へと渡ったら、そのあとはまっすぐ小径を進みます👇

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👇この案内板を左に曲がれば坂本八幡宮
まっすぐ進んだ左手が大宰府政庁跡地。

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👇つきました。

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では早速!と、跡地に進もうとしたら
何か太宰府に関するPR撮影が開始されたようでした。

どうしようかなと思いましたが、一旦横切って戻りました。
👇見えているのは建物の柱の跡。
なにか整備か、発掘?作業をしている方達がいらっしゃいました。

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ここを通って👇一度外の車道へ出ます。

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👆少し歩くと見えてきます。こちらが坂本八幡宮です👇

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少し前に有名になりました
年号「令和」縁の場所
大伴旅人の邸宅跡とも言われ、歌会を開いた場所です。

案内にも

大宰帥(だざいのそち)として大宰府に赴任した大伴旅人は、730年自身の邸宅にて「梅花の宴」を開いた。元号「令和」は、その時詠まれた梅花の歌三十二首の序文「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」から引用された。

とあります。

令和になってすぐは、それはそれはすごい人でしが、
それ以前は、誰とも会ったことないような
静かな、地元の人だけが大切にしているような
そんな神社だったように、私は思っていました。

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そして久しぶりに訪れたこの日
はやり久しぶりに、誰も人がいませんでした。

そこでさっそく収録を開始しました。

こちらのベンチに腰掛けて👇

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横には、令和の石碑

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こちらの音と、収録はこちらから

https://stand.fm/episodes/6149ab363080540006ac470d


が‥‥しかし…

なぜか急に人がちらほらとやってきました。

元々、外収録は人に聞かれると
ちょっと恥ずかしいなと小声で話す私なので
境内のベンチに座っているのも何だなあと、
もうそろそろ政庁跡地の撮影は終わったかなあと、
裏側から戻って見ました。

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が‥‥

まだ終わっておりませんでした、
どころか、何やらキャラクターの着ぐるみまで登場していました。

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ので‥‥少し脇にある東屋のような所に座り
あらためて収録再開としました。


福岡市内では、日中はもう蝉の声を聴くことはありませんが
木々が多いからか、ここでは蝉の声がバックに流れています。

でも同時に秋の虫の声もして、
まさに季節の変わり目、秋分が近いなと思わせるひと時でした。

大宰府政庁跡地は、私の中では
とても気持ちが良い場所です。

音声でもその場からのご紹介をしていますが、
一応、こちらにも記しておきますと、

ここがそういう場所であるのは
ひとつには風水が用いられて開かれた場所だからかもしれません。

風水の基本として
北に玄武 南に朱雀
西に白虎 東に青龍
 と
それぞれに見合った地形があることが望ましいとされます。

例えばここであれば、
北の玄武⇒大野山といわれました四王寺山
南の朱雀⇒二日市温泉 
西の白虎⇒官道(地方政府が管理する大きな道)や蔵
東の青龍⇒御笠川

とそろっています。

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更に、鬼門方向には宝満山がありまして
この麓には、昨今有名になりました
宝満 竈門神社もあります。
昨今、鬼滅の刃の聖地と言われているそうですね。

バスで行かれる方もいますが
太宰府天満宮の裏をぬけていくと案外近く、
わたしは歩いて行きます。

更にその裏の宝満山を登ったりもします。
こちらのエリアについては
またいつかお話させていただきたいと思いますが。

今日は政庁跡地のお話です。

太宰府政庁は律令制下でしたから、
陰陽寮がおかれ、陰陽師も赴任していた、
以前少しお話しましたが

礒氏法麻呂(いそうじの のりまろ)さんと言う
奈良から、大宰府の陰陽師(おんようじ)として
お越しだったという記述があります。

それは天平2年(西暦730)
大伴旅人宅の梅花の宴
先に挙げました「令和」の所以になった梅花の宴
ここで読んだ短歌が、万葉集に残っているので
お名前も解っているのでした。

梅の花 手折りかざして遊べども 
飽き足らぬ日は 今日にしありけり    ~陰陽師 礒氏法麻呂

うめのはな たをりかざしてあそべども
あきだらぬひは けふにしありけり
梅花宴 宴席 太宰府 天平2年1月13日

「梅の花を手折りかざして遊んでも
 なお飽き足りない日は、今日という日なのだなあ」
というものです。

ここでその主催者の大伴 旅人(おおとも の たびと)さんにも
少し触れておきます。

奈良時代初期の政治家、歌人、梅花の宴の主催者ですが
大宰帥として九州の大宰府に赴任し、
山上憶良さんと共に筑紫歌壇を形成していています。
ちなみに旅人さのご子息は大伴家持さん、
こちらの方がもしかしたら有名かもしれませんが。

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ともあれ、そんなことで、大宰府周辺にも
あちこちに旅人さんの歌碑がありますが
奥様に先立たれてさびしいと憂いたり、
遠い都を想う歌が多いです。

そして他にもたくさんの歌人が歌を詠んでいますので
こちらの歌碑も目につきます。

ちなみに

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あおによし ならのみやこは さくはなの 
におうがごとく いまさかりなり ~小野老
青丹も美しい奈良の都は、
咲きさかる花のかがやくように、今盛りです

奈良の方には特に有名だと思います。
また、少し前に、「あおによし」がタイトルに入った小説で
その言葉を知った方もいらっしゃるかもしれません。
万城目学さんの「鹿男あをによし」というのもありました。

それはさておき、先のこの歌は、
小野老(おののおゆ)さんが、
赴任先の大宰府(現在の福岡県太宰府市)から
奈良の都のことを詠んだ歌です。

旅人の部下として
あとから派遣されてきた小野老さんに、
旅人さんが「奈良はどんな風ですか?」と
懐かしい場所の様子を聞きたくて問うたのに対し
詠んだというエピソードもあります。

奈良時代の大宰府は、
平城京に次ぐ規模政府機関とはいっても、
遠く遠く離れた地です。

派遣された役人は、もう奈良に戻れないかもしれないと思い、
懐かしいだけでなくて、きっと心細かったことでしょう。

そんなわびしさと、その中で自分たちを励ますかのように
歌を詠むという文化に親しんだ当時の官僚たちだったのでしょう。

でも、それでもここは、とても気持ちが良い場所です。

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氣が凛として、すっと一筋、風と共に何かが抜けていくような。

この政庁跡地が廃止されたあとも長い間、
手を付けずに、この土地のまま存在していてくれたからこその
貴重な記憶と流れを持った場所のように感じます。

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