花譜と廻花のDNA 神椿代々木決戦の感想

 1月13日、1月14日と神椿代々木決戦に参加してきました。楽しかった。

 感情が整理されてしまう前にちゃんと今の戸惑いを書いておこうと思ったので、書く。


 廻花という存在に関しては、まだ驚きの感情ばかりで、これからどうなるか期待と不安が入り混じっている。
 (理性的に考えると、歌詞に廻花のバックグラウンドを勘案して咀嚼できるので、私的には得しかないはず。)

 Adoのような形で活動の幅が広がるのか?とかそんな商業的なことを思ってしまうけれど、どちらかと言うと、MC内の“エンターテイメントとしての花譜”と言う言葉と“内から湧き出る衝動を表現する廻花”というところの方をちゃんと気にかけないといけないと思った。

 ただぼんやりと廻花を受け入れるだけじゃなくて、ちゃんと廻花と出会った今日の気持ちを大切にしようと思った。

 感想を取り繕わないならば、
 ガワと魂の乖離に、別離に、初めは驚愕と困惑しかなかった。
 私の好きな花譜は、どこまでだ?どちら側だ?なんて思ってしまった。

 花譜と廻花のDNA、二重螺旋の一方と一方で、たまにしか重なり合わないけれど、どちらも彼女で。彼女だけど…彼女なのか?彼女達なのか?

 画面に映る歌詞見ながら聴いていたら、
 MCの言葉を聞いていたら、
 合間合間のポエトリーを思い返したら、

 ライブの最終盤は、咀嚼していた感情が溢れそうになって、ずっと口を覆ってしまっていた。

 (衝撃的な出来事は、画面を通した方がいいと思っていたけれど、今日のこれは、現地の観測者たちの漏れ出る感情に包まることができたという点で、現地参戦で良かった。感想とかが上手くまとめられないけども)

 

 さて、花譜と廻花が分岐した以上、ある程度の対比関係になると思っている。花譜は今まで通り、もしくはそれ以上にエンタメによっていくと思う。

 そうしたら廻花は何になるんだろうか?

 私は、廻花は純文学になると思っている。
 (エンタメの対義語が私の中では純文学なので。エンターテイメントの対義語がアカデミズムというのは違うと思う)

 今までの花譜にも、純文学があった。
 ティーンエイジのジュブナイル小説のような、成長過程、発展途上、青々とした感情。
 花譜のシンガーソングライターとしての曲に特にそういう若い感情が出ていると思う。

 今回の廻花の歌には、その先の今の二十歳の彼女の感傷が詰まっていたように感じた。

 私にとって花譜は、青春の感情との遭遇だったけれと、廻花は避けてきた感傷との正対になる予感がする。

  廻花っていうのは、彼女が話したように、種が目になり花になり、実をつけその種がまた花になり、ってことだと思うけれど、

 廻花を英語にしたcurling flowerの方が、なんかニュアンス的にしっくりくる。
 curling、渦巻き状の、まさに惑ってる形だ。内に秘めた、一筋縄では行かないグルグルとした気持ちを歌にしてくれるのだろう。それがウィンタースポーツの方のcurlingみたいに、衝撃を伝播して、きっと私の感情を弾き飛ばしてくれるんだろうな。

 自分がなぁなぁで過ごしてきた青春を
 花譜/廻花でリバイバルする。
 大人になるために折り合いつけてきた感傷を、彼女たちにぶっ飛ばしてもらおう。激情も、衝動も、号哭も。

 
 もう日曜日の深夜。
 寝るつもりだけれども、耳の奥でまだ感動がキーンと鳴っている。


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