加害行為あるいは加害者性を文章にすることにまつわる問題

ある人が自分の過去の加害行為あるいは加害者性を自覚し、それをネットで言語化する。
それに対して最初はごく一部の人が気付いて共感したり、また別の人がそれを「更生」の過程として捉えて賞賛を送る。
その声はやがて拡散され、かつてあるいは現在被害を受けた人や被害的な立場にいる人まで届く。
そこで彼らはその状況に怒りを感じ、加害行為あるいは加害性を言語化した人への批判が殺到し始める。
すると加害行為あるいは加害性を言語化した人を擁護する人も出てきて、被害者の立場から批判をした人を「攻撃的すぎる」と批判する。
そして今度は擁護者が批判され、擁護者同士でも意見が割れたりしながら、多くの人がそこで生じる負の感情の応酬に巻き込まれる。
最終的には、最初に加害行為あるいは加害性を言語化した人の記事やアカウントが閉鎖される。

これに類似する流れはもう何度も何度も見てきた。
そこでなされる議論の参加メンバーは違ったけど、その度に繰り返される流れは毎回同じだった。
この加害の内容については「いじめ」であったり「性的暴力」であったり「ハラスメント」であったり「虐待」であったり色々なテーマがあったが、特に顕著なのは性的暴力だった。
人の心が深く傷つけられるもので、置かれた立場によって見えるものがあまりにも違うために断絶が生じる問題に起こりやすい流れなんだろう。

まず、(過去の)加害行為あるいは加害性について書かれた文章に共感する人は、自分がこれまで自覚しなかった問題に気付くことで自分の糧になったとして、素直に肯定的に受け止める。文章を読んで気付き始めたレベルなので、問題の根深さについて洞察するには至らない。
更生の過程として賞賛する人は、加害行為あるいは加害性を言語化したことを「勇気がある」と肯定的に捉えて褒める。そのように言語化する人がいることで、他の加害者あるいは潜在的な加害者が問題に気が付くことを期待する。
それに対し、その問題について被害を受けた人やその立場についてよく知る人は、被害について社会的認知が進まず被害者の立場やケアが軽んじられる一方で、加害者の告白が容易に賞賛されるという状況が、被害を軽んじる社会的文脈と重なり合って一種の二次加害になりうることを指摘する。
被害を受けてきた人は、被害者のケアすら満足になされず、二次加害も酷い社会的状況で、問題の根深さをよく知らない人たちが加害者の言葉をあまりにも簡単に賞賛することに絶望を深める。
多くの被害者は表には被害の話を出せずに傷付いているが(残念ながら亡くなる人までいる)、あまりにも追い詰められた人の中には攻撃的な言動になる人もいるだろう。
加害性を言語化した文章は、それが注目と賞賛を集めたぶん、怒りが集まりやすくなってしまう。
そしてその擁護者たちは言う。

・加害者(=加害者だった人あるいは加害性を持った人)が自分の中の問題を自覚して言語化する機会は重要ではないか。
・それは他の加害者や、潜在的な加害者(加害者と同じ考え方をするために、同じ失敗を犯すリスクの高い人)が問題に気付いて、自らを変えることに役立つ。
・人間は完璧ではないんだから、最初から正しい考え方ができないのは仕方ないのではないか。

この考えについて、これは加害者あるいは加害性を持つ人の教育や更生という側面から考えればその通りで、自分も最初はこう考えている部分はあった。
そして実際に、彼らへの教育や更生を主体とするクローズドな場であるなら問題はないだろう。
ただこれは、被害を訴える人に向けて言葉を発信する場面においては、「被害を受けた人の立場を考慮していない無益な発言」だったと今なら分かる。

自分が最初に気付かされたのは、この種類の炎上の中で、とある臨床家の人が「加害者の更生は、被害者に見せるものではない」という発言をしている時だった。
加害者だって人間である以上、生きていく上で自分に都合の良い自己弁護は必要で、反省していく過程で被害者にとっては不愉快でしかない考え方をするものだ。
そもそも加害者がどんなに反省し、更生しても基本的には直接の被害者の救いにはならない。
加害者が更生することで利益を得るのは、被害を受けていない人たちだ。
加害者が更生しなければ被害を受けたかもしれない人が、加害者が更生すれば被害を受けずに済む。
被害者の怒りの声を黙らせて、加害者を更生させることで救われるのは、被害を受けていない人たちだ。
傷が深いほど、加害者に対して「死ね」としか思えない被害者はいるだろうし、そう思うことについて被害者に責任はない。
被害を受けた人が、加害者の更生に対して責任を負う義務はない。

「今」被害を訴えている立場の人に対して、加害者あるいは加害性を持つ人の成長や更生の機会のために何かを要求することは、「加害者あるいは加害性を持つ人や、潜在的に加害性を持つ人たちの更生を優先して、自分の受けた傷や辛さを生み出した問題について訴えることを止めろ」というメッセージになってしまう。
被害を受けた全ての人にそのようなメッセージになる訳ではないとしても、社会から受けてきた二次加害が深刻なほど、それは二次加害のメッセージとしての意味を帯びてしまう。

そのことに気が付いて、被害を受けてきた人のケアと、加害者や潜在的な加害性を持つ人たちへの教育・啓発(時にはケア)は、同じ場所で行うことは殆ど無理な問題なんだという考えに至った。

しかし実際、被害を受けてきた人も、加害者も、潜在的な加害性を持つ人たちも、全て同じ場所に生きている。ネットのような場では、それらの文脈を上手く棲み分けることもなかなか難しい。
そうなると、加害行為あるいは加害者性を言語化すると結局炎上してしまう問題は、どうしたらもっと建設的な流れに変えることができるだろうか。

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そもそも一番の理想は、当たり前すぎることだけど誰も加害行為をせず、それゆえ被害を受けて傷つく人も生じずに済むことだ。
少なくとも今これから新たに傷つく人がいなくて済むように、人が加害者にならないための予防としての教育やケアは当然必要だろう。


しかし現実にこれまでに起きてしまったことは変えられず、これからも(過去に)加害行為をしたあるいは加害者性を持ってしまった人が、自分の内面と向き合いそのまま言語化していく過程で、(過去の)加害行為や加害性の表明になってしまうことはあるだろう。
自覚が無い問題について予め避けることはできないので、そういう状況は今後も起こるだろう。

でもその次に起こる流れは、少しなら変えられるのではないかと思っている。
なぜなら、加害行為あるいは加害性を言語化した人の周辺で、結果として多くの人が傷つく状況を少しでもマシにしたいと願う人たちはいるから。
この文章は、主にそのような人に伝わることを意図して書いている。
ただ先に書いておくと、皆がこれから書くようなことをしなければいけないと考えている訳ではない。
人にはそれぞれ事情があり、同じ人でもその時々の状況などで、支払えるコストも耐えられることも大きく変わる。
出来る人が、出来る範囲で背負えるコストを支払って、無理そうなら無理をしないのが、長期的に良い状態が続くと思う。
その前提から話を続ける。


この繰り返される流れが少しでも緩和されるためには、どうして毎回毎回似たような繰り返しが起こるのか、この種類の問題の構図と、二次加害の問題についての知識が必要になるだろう。
この種の炎上は、基本的に「いじめ」「性的暴力」「ハラスメント」「虐待」のような人の心を深く傷つける話題で生じやすい。特に顕著なのは、いじめや性的暴力だった。
これらは被害を受けた人が、自分の被害を訴えにくく、訴えれば黙らされ、周りの人から信じてもらえなかったりして、極端に孤立させられやすい問題、それ以上に(加害者ではなく)被害を受けた自分が悪かったのではないか、と自尊心を深く傷付けられるような問題だ。
特に、性的暴力は世間の人たちの被害者への理解が致命的に足りず、二次加害が深刻な形で起こりやすい。


そのような背景がある問題について、「加害行為あるいは加害性を言語化した人を、多くの人がオープンな場所で手放しに褒めた」場合、どうなるだろう。
(潜在的な加害者も含め)そもそもその問題の自覚のない人は、誤ったメッセージを受け取るかもしれない。
加害者の教育・啓発に真っ先に目が向く人にとっては流せることかもしれない。
また、被害を受けた人中には、それで少しでも自分の中の問題に自覚を持つ人が増えて今後の被害者を減らせるならば、「自分は我慢しよう」と考える人は少なくないと思う。
しかしこの状況は、必要なケアがなされないまま二次加害を受けて傷を深めた被害者の立場にとって、「被害者は放置されるどころか、二次加害を受けて傷付けられてきた。それに対して、加害者は加害をしないという当たり前の状態になっただけで、加害行為や加害性を言語化するだけで賞賛される」という状況として受け取められる。
人が耐えられる臨界点を超えて傷を抱えている状態の人にとっては、他者への信頼感がさらに損なわれしまってもおかしくない状況だ。

さらに、人が加害行為あるいは加害性を言語化していく過程では、(人間は自分のことを全て否定しては生きていけないので)自己弁護も入るし、その考えこそが加害を肯定し被害者への二次加害の原因になる、というものが含まれることもある。
特に後者が含まれる考えをオープンな場所で多くの人が肯定してしまえば、今後の被害を減らすために我慢して黙っていた人でも「さすがにそれは間違っている」と訂正をせざるを得なくなる。

そうすると、否応なく「被害者 対 加害者という構図」でのやり取りが始まってしまう。
この「構図」は、この構図になってしまったこと自体が不幸だというくらい業が深い。
何の準備もなく、両者の間に(主に被害者側の)ケアや心理的安全を確保出来る人がいない状態で、しかもオープンな場所で、「被害者 対 加害者という構図」でやり取りが開始してしまうとどういうことになるか。
例えば一般的に「対話」というものは、相手の話を聞いて自分の間違いを素直に認めて訂正するという過程が自然に入る。
仮に一方の意見が明らかに正しく、もう一方の意見が間違いであっても、とりあえずはお互いに意見を聞くし、相手の視点に立って相手に伝わる言葉を投げかける過程が必要になる。
結果的に良い対話であればお互いが対話によって何かしらのものを受け取ることになるけど、まずは双方ともコストを払い合うことも必要になる。
しかし「被害者 対 加害者という構図」になってしまった時に、これは極端に困難な課題になる。
繰り返された傷つきで被害者であることがアイデンティティの一部になっている人にとって、「被害者が加害者の視点に立つことを要求される。被害者が加害者と対峙した状態で、被害者が間違っていたことを認めさせられる。被害者が加害者に謝罪をする。しかも多くの人が見ている前で。それを周りの人たちがフェアな”対話”として要求する」という場面が発生することは、残酷な状態だろう。
まさに過去に周りの人たちからの二次加害で「(加害者ではなく)自分が悪かったのではないか」というメッセージを受け続けて、傷けられてきたからだ。
オープンな場所ならなおさら、二次加害の深刻さを知らずに発言してしまう人もいる。
そして(過去の)加害行為あるいは加害性を言語化した人が「対話」を試みようとすればするほど、その相手に負担がかかるために余計に問題が悪化する。

これが最初に始めた、「人が(過去の)加害行為あるいは加害性をネットで言語化すると炎上してしまう」流れで起きている全体の構図だ(と自分は理解している)。


この全体像を踏まえて、この問題で人が傷つくのを少しでも減らしたいと思った周りの人たちはどうすればいいだろうか。
周りの人に必要なのは「まさにこの全体像や構図を知って気がつくこと、それにより、この構図に感情的に巻き込まれないこと」だろう。
ここまで説明してきたのは、この全体像や構図を知ってもらうためでもあった。
「被害者 対 加害者という構図」が強くなるほど、どうしてもその場のやり取りは当事者にとっても、それを見た人にも辛いものになりやすい。
(絶対に問題があるとは考えていないが、被害者としての立場を明示して言葉を発する人の負担は重く、「対話」をするにはそれなりの準備や覚悟がいる。)
予めこの全体像を知っておくこと、そして自分の中に余裕を持っておくことに意味がると思う。
余裕があれば、その分を被害者のケアや加害者の教育や啓発(やケア)に使うことができるかもしれない。
そもそも二次加害の問題が起きないために、自分に何ができるか考えられるかもしれない。
(繰り返しになるけど、皆が何かをしないといけないとは思っていない。人には事情があり、それぞれが出来る範囲のことをやっていくことが長期的に見ていい結果になると考えている。)

被害者や加害者というのとは別の視点で、周りにいる人たちが、被害者のケア、そもそも加害者にならないための教育や啓発やケア、加害者になってしまった人への教育や啓発やケアの問題について、何かできることを個々人がそれぞれ見つけられれば・・・と考えている。
(二次加害の問題を知らない人はそれを知って自分が二次加害をしないよう気をつけたり、周りにそれを知らない人がいたら説明してあげたり、ということも出来ることの一つだろう。)

とりあえず、こうすれば一発解決なんて方法は無いと思うけど(そんなものがあれば誰かがとっくにやっていますよね・・・)、
いつも同じような流れになってしまわないようにしたいと思って書きました。



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