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加害行為あるいは加害者性を文章にすることにまつわる問題

ある人が自分の過去の加害行為あるいは加害者性を自覚し、それをネットで言語化する。 それに対して最初はごく一部の人が気付いて共感したり、また別の人がそれを「更生」の過程として捉えて賞賛を送る。 その声はやがて拡散され、かつてあるいは現在被害を受けた人や被害的な立場にいる人まで届く。 そこで彼らはその状況に怒りを感じ、加害行為あるいは加害性を言語化した人への批判が殺到し始める。 すると加害行為あるいは加害性を言語化した人を擁護する人も出てきて、被害者の立場から批判をした人を「攻撃

    • 集団というものについて考えた

      (最初は、正しさの話から連想的に思考していたつもりが、最終的に集団の話になったのでタイトルを以上の通り名付けた。) 本質的に絶対的な正義があるとは思ってはいないが、単純に誰かが暴力を振るわれたりする状況は面白くない。 さらに暴力が論理によって「正当化」された上に、流通する状況を目の当たりにすれば感情として苛々する。 なので暴力を正当化する論理を見ると、その論理をその論理に内在した原理で無効化するという事をしたくなり、実際にそのような論理を構成したり言語化する機会が多かった。

      • 悪意について考えた

        悪意とは何だろう。 ネットで悪意という言葉をめぐる、ある種の緊張状態を見かける度にモヤモヤした思いが積み重なってきた。 誰かの行為を悪意だと決めつける人がいれば、他人の行為を悪意だと決めつけることの不毛さを安直に説くことで、状況を良くない方にややこしくする人もいた。 他者の行為を悪意だと断言することに一定の危機感を持つことには一理あるとも思ったし、逆に悪意という概念を全く使わずに今ある現実を説明することも無理があると思った。そのあたりから、自分なりに考えたことを整理してみた。

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