悪意について考えた

悪意とは何だろう。
ネットで悪意という言葉をめぐる、ある種の緊張状態を見かける度にモヤモヤした思いが積み重なってきた。
誰かの行為を悪意だと決めつける人がいれば、他人の行為を悪意だと決めつけることの不毛さを安直に説くことで、状況を良くない方にややこしくする人もいた。
他者の行為を悪意だと断言することに一定の危機感を持つことには一理あるとも思ったし、逆に悪意という概念を全く使わずに今ある現実を説明することも無理があると思った。そのあたりから、自分なりに考えたことを整理してみた。

■悪意という言葉の一般的な意味と機能
「悪意」という言葉は一般に、ある人物の振る舞いが他者を傷付けたり不快感を与えたり不利益を被らせる等の、ネガティヴな影響を与えることを主体的に「意図」した言動であると見なされた場合に、「あの人には悪意がある」という形で使用される。
結果として他者にとって何らかのネガティヴな結果をもたらす振る舞いであったとしても、単なる無知や不注意による結果であった場合には、悪意があるとは見なされない。
主体的な「意図」が前提とされるので、知らなかったことや予想出来ない出来事を結的にもたらした行為については、基本的に悪意とは無関係であると判断される。

他者の振る舞いを説明する際に「悪意」という言葉を使用することは、状況によっていくつかの機能を持つ。例えば、「悪意はなかったから仕方ない」という語用により、その人の振る舞いを免罪する機能を持つ場合がある。
あるいは司法の場では「被告人の行動には明確な悪意があるため………」という定型句と共に、より重い罰を与えるための根拠として用いられる。
このように「悪意の有無」は他人の行為を評価する際に、社会的に重要な判断基準として採用される。
(もちろん悪意が無ければ必ず免責されるという話に繋がるわけでもない。より公的で重要な問題であるほど、出来事の責任を追及されるだろう。)

個人的な人間関係において、「悪意の有無」はより重要な要素とみなされる。「悪意があった」とみなされれば、相手との関係が致命的に悪くなる場合が多い。
個人の関係においては、相手の振る舞いが結果として引き起こす被害の大きさよりも、「相手が自分に対して悪意があるかどうか」の方が、重要視されるケースすら普通に見られるだろう。
要するに「悪意がある行動なので許さない」「悪意がないのであれば許す」という行動が、しばしば見られるのである。

さて、ここまでは悪意について一般的な認識を共有するための説明をしてきた。
本題はここからだ。
これらの議論を踏まえて、それでも「悪意とは何か」より正確には「私たちは悪意という概念をどのように構成しているのか」という視点から悪意について考えよう。

■悪意を定義すること
前述のように私たちは日常的には「悪意」という概念を使用できるし、その意味も理解できる。
では実際に他者のある行為に悪意があったかどうかを「完全」に判断することは可能だろうか。
結論からすれば、それは不可能である。

悪意がない場合に「私は悪意があったのでこれこれの行為をした」という人間は殆どいないだろう。
逆に実際に悪意に基づく行為を行なった人間がいるとしても、その人間が自ら「私は悪意があったのでこれこれの行為をした」と明示的に表明した意図を根拠にすることは滅多にない。
そのため、両者は外形的に明確な区別をつけることが難しい。
日常的な行為に関して言えば、多くの場合は悪意があることを示す直接的な証拠はない。
ある結果に対して、その行為が意図されたものであることを示すことすら難しい。
多くの間接的な状況証拠が必要とされるだろう。

更に言えば、仮に明確な意図を持った行動だとしても、それが本人にとっては善意に基づいた行動である可能性すらある。
そして、多くの人は他人の内心の少なくとも全てを把握することは不可能だと信じている。
完全に他人の内心を把握することが出来ないなら、究極的に相手の行動にどんな意図があるかも分からないだろう。
なので、悪意があったかどうかを「すべて完全」に判断することは不可能である。そもそも人の定める定義に「完全」な定義がどれほどあるか。
しかし重要なことはこの先にある。それは次の節で述べる。

■悪意という概念の有用性
前述の議論にも関わらず、相手の行動を悪意であると判断する行為は、日常生活の中で一定の合理的な行動と見なされている。
これはなぜか。
悪意の有無を区別することは、一定の条件下では有用と見なされるケースがあるためである。
例えば、一定の損害を与える行為を行なった人がいる時に、明らかに過失であるという認識を共有できる行為と能動的な行為を区別して、過失だったと認められた人に一定の措置を行ったり、寛容な態度で包摂的に接する場合である。
日常の円滑な人間関係を維持する上では、これらの区別は必要とされるだろう。
このような場合、「悪意がない」行為に対する寛容さを担保するために、悪意かどうかを区別するという基準が合理性を持つ。
その裏返しとして、「悪意がある」という状態が規定されるという側面は生じるのである。

■悪意という概念のネガティブな側面
ひとたび悪意という概念が一定の機能を有するようになったからこそ、悪意という言葉を使用することが忌避されるケースもある。
悪意という言葉の使用を忌避する人たちの懸念は恐らくこうだろう。
他者に悪意があることを前提にして解釈を開始すると、多くの行動を悪意と関連づけて解釈しやすくなる。
相手に対する対応も、相手に悪意がある前提で行うために、より攻撃的なものとなりやすい。
それによって相手の反応も攻撃的になりやすく、その結果を見てさらに相手に悪意があるという解釈への確信を強化する。
そうやって悪意という一つの解釈によって現実を構成し、さらにその解釈を正当化する循環が発生する状況を危惧しているのだろう。
この可能性は十分にあり、その危惧は一定の妥当性がある。
人間には現実を、自分の依って立つ一定の認識の枠組み=フレームから把握し理解する傾向がある。
そのフレームは認識の根拠となるだけではなく、ある認識のフレームを採用すること自体が、現実をそのように構成するのである。

この問題は人間の認識と現実が循環的に構成し合うことの2つの側面のうち、人間の認識が現実を構成するという側面と言える。
「他者の悪意について考えない方がいい」と判断する人は、この側面を重視しているのだと考えられる。

■判断と行為の不可分性
そもそも何が悪意であるかを定義するという判断と、悪意であるかどうかの判断に基づいてなされる行為は不可分のものである。
それはどういうことか。 人は「他人のある行為を悪意によるものだと判断した”から”、その行為を許されざる行為と判断する」だけではない。
時には、「その行為を許されざる行為と根拠づける”ため"に、悪意によるものだという判断をする」ことがある。

なぜそのように論点先取りのように見える判断が生じるのか。
それは、悪意ではないという判断はその相手を許すという行為と結びつけるべきものである、という社会的規範が、ある程度共有されている文脈が既にあるからである。
この文脈の中で、他者の行為を悪意ではないと判断すると、許すことを強要され求められることがある。 そのような状況で、ある行為を許すことのできないものであると結論づける行為のためには、悪意があったという判断が必要になるのである。 そしてこの判断と行為の不可分性から生じた「あの人には悪意がある」という判断と、認識が現実を構成する効果が合わさることで、非常にネガティブな状況が生じる場合はある。

■悪意の有無を区別”しない”ことによって生じる問題
前述のように、「相手の行為に悪意があることを前提にして行動するために、相手の行動が悪意であるという現実が循環的な形で強固になってしまう」という状況は現実にある一つのパターンだろう。
しかし「相手の行為を全て善意に基づくと見なせば、相手の行動の全てが善意に基づく行動になるか」というと、そのような状況が発生する可能性自体はあるが、全てのケースでそれが現実になることはあり得ないだろう。

そもそも全ての事例で悪意が無い前提で考えることと、全ての事例で悪意がある前提で考えることは、悪意の有無を区別しないという点で形式的には同じである。
しかし前述のように日常生活の中で悪意の有無を区別することは一定の条件下で必要とされてきた。
そして、ほとんどの人々は悪意の有無を区別する文脈の中で生きている。

そのように悪意の有無が区別される文脈の中で、「ある事象に対してだけ」「特定の人への行動だけ」常に悪意がないことを前提に理解を強要することは、特定の人に対してだけ暴力が振われることを容認する根拠になってしまう。
既に悪意の有無が区別される文脈がある場で個人が利益を損ねずに生きるには、適切な区別が必要とされるのである。

■私たちは現実をどのように構成していくのか
以上の議論をまとめると、私たちは悪意がある/ないと判断することを通して、悪意という概念と関わってきた。そして、悪意という概念は人々の日常生活の中で一定の有用性や合理性があるために既に使用されてきた。
ある現実を語ることは、既にある文脈を利用して力を得ることに繋がることもあるし、語る主体にとっての現実を再帰的に強化する効果を持つ場合もある。
時には語ることに囚われて自縄自縛に陥ることもあるし、それでもなお語らねばならない状況もあるだろう。

そこで私たちは他者と関わる際に、他者の行動を悪意と関連付けることで、現実をどのように構成していくのかということを問われながら生きている。

悪意の例に限らず、概念は使用される中で認識と現実の循環、あるいは判断と行為の循環の中に埋め込まれている。
その全体の複雑な文脈の只中に、私たちは生きているということである。
このような状況の中で、個人が自分の認識や欲望を捻じ曲げずに肯定するためには、ある行為を悪意であるとみなすこと、あるいは逆にその行為を悪意ではないとみなすことで、どのような認識や行動上の効果が生じるかを俯瞰的に考え、全体の流れを見通した上で問題と向き合うことが建設的ではないか、と思う。
少なくとも流れに一方的に呑まれないためには、自分の望みが何であるか徹底的に向き合うことと、全体の流れを俯瞰することの両方が必要になる。
たぶんそのほうが結果的には色々苦しくない。


■蛇足(悪意のない暴力性について)
小さい子供が蟻の巣に水を入れたりするように、悪意を想定できない暴力性はあるだろう。 これを書こうとすると今回の話の収集がつかなくなるので省略したけど、頭の片隅に問題意識があったので蛇足として記しておく。
それから、全く同じ行動で、同じ結果でも、悪意がある行動の方が直感的に「ムカつく」という感情を引き起こしやすい問題についても同上(人間にとって他者とはいかなる存在か、っていう方向性の問題が絡むと思う)。



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