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『哀れなるものたち』おとぎ話を伝える”威力”

美しい。
にしても美しい映画だ。画面の隅々に至るまで”世界を形成したい”という欲望があふれており、派手ではあるものの決してけばけばしくはならないラインで色彩が調律されている。ロンドンの街並み、ファンシーでグロテスクな遊び心も感じられるバクスター家の内装、海も空も深く美しい青に彩られた遠洋定期船の光景、蠱惑的かつ頽廃的な雰囲気漂う売春宿、見下ろした先にあるアレクサンドリアのスラム街、丹念に手を加え作成された絵画のような、どのビジュアルも私たちを幻想的な世界へいざなおうとする作り手の美意識が感じられて最高だ。映画に映像美を求める人なら垂涎ものの出来。モノクロの映像からはじまり、やがてカラフルに色づき、場面場面の光景が脳裏に焼き付くよう。ここまで様々な色彩を使いながら世界を表現しているにもかかわらず、視覚的に疲れないのはなぜなのだろう。そしてここまで空と海の”深さ”を象徴的に映した映像は初めて観たかもしれません。

本作は、ある特定の時代を匂わせつつ、スチームパンクやおとぎ話のようなデザインを目指しており、こうしたワンカットごとの深い味わいこそが「ファンタジー」としての『哀れなるものたち』をより強烈な個性を持って輝かせています。剣や魔法など登場させずとも異世界を作り出すことは可能であり、画面を設計する能力によって「いま、ここではない」世界の”空気”を体感的に私たち観客に伝えることは出来るのです。そしてその空気は作品のムードとなり、「おとぎ話」を物語るという”困難な”ことを可能としていました。

「”世界を形成する”欲望」。
ファンタジー映画を作る上であって然るべき欲望がこの世界には満ちています。きっとあなたにも感じ取れることでしょう、ムンムンと漂うこの「空気」が。その意味で『哀れなるものたち』はファンタジーでありおとぎ話なのです。本作の美術セットは、なんとすべてを歩き回るのに30分はかかる壮大なものらしく、よくもまあそこまで作りこんだものだと舌を巻きます。ここには間違いなくひとつの都市を、ひとつの世界を創造したいという製作者の欲望があり、その世界観の”圧”が私の心を躍らせる。バクスター家行ってみたい~。船上でのダンス(というか乱闘)に私も混ざって騒ぎたい~。
魚眼レンズによる撮影や、背景を印象派絵画のように映した撮影にも作家性が現れており、そのどれもが相乗的に作用することで作品の価値は高まるばかり。すごい。ヨルゴス・ランティモスは化け物か。圧倒的じゃないか、エマ・ストーンは。

この『哀れなるものたち』はセクシュアリティ、社会的制約、男性が持つ女性への偏見に満ちた心理を描いており、ときにシュールに、ときに可笑しく、それらを物語った”おとぎ話”です。「いま、ここ」の地点まで広く鋭い射程で届くおとぎ話

自ら命を絶った女性ベラは、天才科学者ゴドウィン・バクスターによって胎児の脳を移植され蘇る。はじめのうちは歩くこともままならず、食べ方もおぼつかない。ただしいこと、ただしくないことの区別などなにひとつ知らない無垢な子どもなのだ。しかしすべては早すぎる。未知なるものは次々とベラの元に押し寄せ、自由気ままに何事にも縛られることなく生きる彼女の精神を繋ぎとめることは誰にもできない。モノクロな映像はやがて色彩を帯び、それと同時に彼女は自身の世界を押し広げるかのごとく旅立つこととなる――。

下敷きとして『フランケンシュタイン』を参考に製作された本作は、ふんだんに性描写を盛り込んでいます。が、そこに必要以上のエロティシズムは付与されておらず、あっけらかんとした「熱烈ジャンプ」のシーンは、どこかコメディチックにすら見えました。というかベラは性行為を繰り返すほどに世の中の不条理に気付き、自身のアイデンティティを確立させていき、より強く、より知的になっていくわけで、セックスの歓びは一時的なものに過ぎません。ここで描かれていることは「セックス」に対する過剰反応への疑義だったり、女性を性の対象とみなしコントロールしようとする男性の醜さ(”遅さ”と言い換えてもいいかもしれない)だったり、そこからベラが主体的に自身の身体を獲得する「解放」についてだったりするのです。なので、本作の特徴をやたらとエロだグロだと印象付けることは目を曇らせるだけでしょう。

すばらしいのは背景の美術だけではありません。スポンジのようにあらゆる経験をどん欲に吸収していくベラが、何らかの経験をするたびに変わっていく衣装は、シックさと現代性を兼ね備えた可愛らしくも目を見張るデザインのものばかり。経験を通すことで、社会的でより性的なものへと変化していくため、視覚からストレートに彼女の成長を感じ取れることでしょう。
魚眼レンズで撮られた画面の違和感は世界の異様さそのものを表し、ときに絵画じみた美しさを放ちます。印象派の絵でも見ているかのようにふんわりとした手触りと、幻想的な空気。そういった撮影のすべては、その時々で純粋にその世界を受け止め、その度に移り変わるベラの心象を表しているかのよう。
さらには時に不協和音のように響く音響もいい仕事をしており、映画の不穏さ、登場人物の心のゆらめき、ファンタジックな世界観をキリっと表現していました。
つまりこの映画に映される画面や音の”歪み”は、それを眺めるベラの心情を的確に捉えたものと言えるでしょう。そのため、その色彩は成長するほどに落ち着き、世界ではなく彼女の内面の方に複雑さが宿っていくのです。その知性が強まっていくほどに、彼女の身体こそが彼女自身の「いま」を物語る装置として。

映画全体の流れを鑑みれば、ベラは世の中に悲観し、絶望感に打ちひしがれ、誰かを憎むような展開があってもおかしくはなかったと思います。しかし、『フランケンシュタイン』の女性版とも言える本作は、そのような道をたどりません。特殊な環境下で生まれたベラの目を通すことで、良識というものに潜む”歪み”を、——現実のいびつさの方にこそ変えるべき点があるのではないかと、私たち・・・が思い至る構成となっています。私たちがなんとなく持っている”良識”。それがときに枷としかならず、倫理観においてもジェンダー観においても何かしらの制約を持って物事を眺めていたのではないだろうかと、そのことに気づきハッとする場面が何度もありました。
おとぎ話であるはずの本作は、そんな気付きを私たち観客に与える威力を持っており、固定観念に縛られない自由な存在として、エマ・ストーンが屹立してきます。

誰が彼女に対して哀れみの念など持てるでしょう。学ぶことをやめず、考えることを投げ出さず、常に主体的に生きようとする彼女の姿は精悍そのもの。”哀れなるものたち”、それは自分の「遅さ」に気づくことができないダンカンのような男のことを指しているように思えてなりません。
かくして、いびつで狂気的な世界で生き抜く術を学んだベラは、自身と同様の”処置”をかつての夫にほどこすことで確固たる自我を確立させるのです。まあただ、このラストについては柔和でハッピーな雰囲気が漂ってる反面、非常に邪悪でもあり、好みが分かれそうではあるなあと思いました。

知的で示唆的、官能的であり美しい。奔放に生を謳歌したベラと、その熱を画面の隅々まで行きわたらせた「娯楽」映画。次の展開を、次のエキセントリックな撮影を、豪華絢爛な美術を、華麗な衣装デザインを、ベラの生きざまを見届けたくてたまらなくなる、そんな140分間でした。いますぐに”熱烈”な傑作を観たい? それなら『哀れなるものたち』一択でしょう。

最後に、身体中で「解放」を表現したエマ・ストーンに拍手を。あとウィレム・デフォーの卓越した演技と特殊メイクも素晴らしかった。デフォーが出てくるシーンは彼の顔だけで画面が持つね。その意味で本作はデフォーの顔を味わう映画だとも言える気がする。



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