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『落下の解剖学』

ある雪山の山荘でひとりの男が落下して死んだ。これは他殺なのか、自殺なのか。夫殺しの嫌疑をかけられた妻と、視覚障害をわずらう息子のダニエル。事件をめぐって検事や弁護士がひとつひとつの事象を綿密に調べ、真実を追求していく法廷映画。

本作の物語がドライブするポイントは2か所あって、ひとつめは夫の死体が発見された場面。そこにいたるまでは、登場する人物たちの細かい挙動(例えば目線だったり、くつろぐ様子だったり、犬を連れて雪山を楽しそうに歩いてるところだったり)から、その心情を推し量ることとなる。しかし死体が発見されて以降は一種のミステリーの様相を呈し、徐々に隠されていた秘密や嘘が明らかになっていく。

もうひとつは裁判がはじまってしばらくして、新たな証拠として「録音された夫婦喧嘩の声」が提示される場面だ。何が嘘で、何が真実なのかはこの映画において端から重要ではなく(ありがたいことにそのことは登場人物が台詞として強調して言ってくれる)、「なにを真実の物語とするか」ということの方が重要なのだと説いてくる。それは、この夫婦喧嘩の録音という、見方によっては”決定的”になり得る証拠であっても、想像の余地を出ない部分があり、であるならば、「みんなが納得するラインの物語をつくる」という共犯関係のような前提が出来上がるわけだ。
それが『落下の解剖学』における”法廷もの”としての面白さであり、同時にそのことをテーマとすることで本作は”法廷もの”が抱える問題点(”限界”と言い換えてもいい)をあぶりだしている。

当然の帰結として、この映画は、そこで実際に何があったのかは描かない。「実は真相は~だった」という後味が悪くなるようなオチも用意しない。人が主観的にしか現実を把握できないのであれば、なにがあったかは、ただひたすらに想像することしかできず、そうしてどこかで折り合いを付けざるを得ない。
父親が落下したとき実際に起こったことはなんだったのか。重要なのはそこではない。父親が何を考えていたのか。母親が何を考えていたのか。自分が何を”得たいのか”。真実に手が届かないのであれば自分のなかで想像し、ひとつの物語を作り、それを受け入れるしか道はない。
ダニエルは1年間、裁判を傍聴することでそのことを理解し、誰におもねるでもなく自分なりの”真実”を提示し、そのルートの人生を生きていくことを決める。

言葉の重要性は後半に行くにつれ上がっていき、重要性が上昇するほどに真相は藪の中になっていく。私たちはこの裁判の行く末を共に傍聴するひとりとなり、提示される断片的な事実から「このようなことがあったのではないか」と想像する。そうしてあなたの心の中に生まれる”真実”は、やはり真実”らしきもの”でしかなく、どこまで行ってもすべては主観的なものでしかない。
本作の凄みはまさにこの部分にあり、登場人物たちと私たちは共犯関係を結び、ダニエルが選び取ったルート受け入れ、彼の新たな人生が始まる瞬間を目撃し、映画は幕を閉じるのだ。

やっかいなことにこのことは映画の「外側」にも波及する。
映画をどう見るのか、どうその物語を受け取るのか。それもまた私の主観でしかないのならば、どれだけ精細に言葉を綴り、内容を解剖しようとも、そこには常に想像の余地を出ない部分があり、真実はこの手からこぼれ落ちていく。そのことを、その限界性を『落下の解剖学』は提示する。

あと犬の名前が「スヌープ」でちょっと笑った。
去年、友人と2ヶ月間かけてどっちがより体脂肪を減らし、どっちがより筋肉量を増やせるか、という競争をしていた期間があって、勝った方はこの本を景品として受け取るということになっていたのを思い出した。

結果、私の方が体脂肪率を減らすことに成功したのだけど、友人宅に本を置き忘れてきてしまい、何故かその後は友人宅からも見つからず、紛失したままとなっている。『スヌープ・ドッグのお料理教室』の行方は、誰も知らない。



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