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『アメリカン・フィクション』

風刺もりもり、盛りだくさんのコメディ映画。アメリカにおける黒人やゲイ、家族間の在り方についてのブラックな笑いを軸としている作品です。

主人公のモンクは売れない作家。自身が納得する作品を書いても中々認められず、言葉のあやが悪いように受け取られ、講師の仕事をクビに。作品がボツにされる理由が「内容が黒人らしくないから」というあたりやべーなとは思うものの、そういうことについても笑いに変えて提供しています。よーしそんなに言うならやったらあと書いた小説が「父親を銃で撃ち殺す息子の話」というバリバリに”黒人小説らしい”インパクトのある内容。すごいじゃん! 黒人小説らしくて最高じゃん! と出版社内で話題になり、文学賞も取っちゃうかも!? と、うだつの上がらなかった作家に大きな転機が訪れる。果たしてモンクの運命は――?

自棄になったモンクが小説のタイトルを「Fuck」に変更したり(それがまたウケたり)、家族内や恋人とで問題が発生したりと、会話やトラブルを通していま黒人が置かれている歯がゆい状況を見せていく。いやはや、観ていてやるせない気持ちになりますね。しかし同時に主人公のモンク自身、ある面ではステレオタイプな「黒人像」に囚われている部分があり、それによってよりシニカルにこのクソみたいな世界を可視化させていくわけです。とか言ってる私自身だって”黒人”と言ったら「こんな感じ」というイメージを持っていて、それが固定観念としてあるんだろうなあ。いやだいやだ。

今作はそんなふうに「先入観によって相手をカテゴライズする」ということをあくまで風刺として、ブラックジョークとして描いているため、見ている側がどんな属性を持っているにせよ、何かしら伝わるものがあるはずです。基本的にずーっと皮肉っぽいことを言い続け、それによってこの映画は出来上がっておりますので、会話も、登場人物も、彼らが置かれた状況も、小説を映画化するというメタ構造まで含めて、すべてがどことなく皮肉めいているのです。皮肉、皮肉、皮肉だらけ。んが、それがこの映画の難しさでもあって、あまりに皮肉で覆われているせいで、私は若干息苦しさを覚えました。すべてを皮肉にし過ぎているせいで、ジョークが相対化してしまい、ジョークとして機能しなくなってくるというか……。正直もうちょい別角度からアプローチする何かがほしかった。

でもそのように「笑いに変えないことにはやってられない現実がある」ということも意識しているのだとしたら、私が本作に感じた「息苦しさ」ってやつは、黒人が感じている息苦しさそのものなのかもしれないな。ほら、ほんとは本音で真面目に話したいのに「何マジになってんの」と言われてしまう、あの感じ。ああいうやるせなさがこの映画を包み込んでいる気がします。ため息が出てしまうような、笑ってごまかしたくなるあの空気。そんな空気に流されてしまうこと。そういうやるせなさを知っている人なら、きっとこの映画の面白さは伝わるはず。

つまりそういった「まあでもこう言うこともあるよね、仕方ないよね」みたいな楽な方へ流れていってしまう気分を、ひとつ上の視点から見つめジョークに変え、風刺として見せることで私たちに問題意識を植え付ける。『アメリカン・フィクション』はそんな作品でした。最後のオチまで皮肉が効いていましたし。「残念ながら映画化される」……か。笑える。いや笑えないな。

なお、本作は日本での劇場公開は見送られ、現在アマプラで配信されています。なんか一周まわってラストの主人公の台詞がさらにシニカルに聞こえ、映画を観ながらにして愛想笑いが出てしまいました。こんな経験はじめてだ。



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