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カントに関する覚書

交換とカントの倫理

 契約は相手に対価を支払うことで、ある効用を得るものである。その交換は、効用ないし対価の獲得という目的に支配されている。柄谷行人はカントの倫理は資本主義を否定するといった。それは正しい。純粋な交換様式Cの世界は効用ないし対価を目的とし、他者それ自体を目的として扱うことがない。

 ただし、それは他の交換様式も同様だろう。交換はそもそも見返りを期待するものであるからだ。カントの倫理は一般に交換を超えるものを要求する。そしてそれは同時に、本質的に単一の交換様式とその目的にとらわれないことから、多元性や余剰を他者との関係にもたらすだろう。

科学の真理と統整的理念

 反証可能性のある言説によって真理に近づくという原理は真理を統整的理念とみなすことの言い換えではないだろうか。真実、真理、それは統整的理念なのではないだろうか。

「ものそれ自体」にはたどり着かない

 真実を求める知は一つのアポリアの中にある。真実を求める知は「本当に在るもの」「そのもの自体」に向かおうとする。しかし、知の本質は関係のネットワークである。ネットワークの連なりはその関係の末端とは異なる。「そのもの自体」や「本当に在るもの」を求めると、連なりを本質とする知は自身の求める対象を見失ってしまうのである。「本当に在るもの」の探究は知そのものを否定する。知は末端には辿り着かないか、追い越してしまう。

統整的理念が必要とされる理由

 なぜ統整的理念は必要とされるのか。それは根源的には認識の対象と認識は異なるという事態によってだろう。末端には届かない関係であるということから。このような事態は知において消し去る事ができない。仮に認識の対象と認識が完全に一致している何かがあったとしても、そこには情報の伝達が存在しないがゆえに、それはもはや「知ること」ではないからである。カントが「ものそれ自体」という概念を見出したのは偶然ではないのかもしれない。

平和について

 平和とは自由の相互承認のことではないだろうか。自由とは取りうる行動の選択肢の集合である。その取りうる選択肢を互いに承認すれば、それを承認しているのだから、フィジカルな暴力は存在せず、選択の暴力はゆるされる。

最後の宗教

 カントは最後に残るべき人間(理性的存在者)の宗教を発見したのかもしれない。それはつまり、自由な人格。


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