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病のパラドックスと哲学 報道の中に垣間見る全体主義と同調圧力の危険性

世界的な流行を引き起こす感染症に関しては、人類は治療よりも時として予防を優先することがあります。ワクチンもその一つですが、現代科学、現代医療に最も懸念とされる事項は、被害やリスクを想定して、そこに根本的な治癒と感染の関係を真摯に考察せずに、根治を想定した研究を置き去りにして解決したかのような錯覚を引き起こす点でです。

これはその考えの根源に、あらゆる事象の妥当性と相互関係性を追求しようとしない、極めて稚拙な安易な発想から発端を始めている点が問題と思えます。

ここで、ある議題を提出します。

・とある感染症は100人全員に感染するが、死亡者は1人である。

この場合、現代の確率論からすれば、死亡率は0.01%と比較的、重大な論点に感じることは少ないですが、これを死者の視点で捉えると、人の考え方に大きな差異を生むことになります。

・ほぼ全員は助かるが、死亡するのはあなた1人である。

最初の議題と後者の議題は内容は全く同じです。

統計とは、参考にするべき確率を証明してくれますが、それは助かる確率が上がるわけではありません。あくまで、集団の中での被害を最小化するための参考数値です。もっと厳しく表現しましょう。これでも、あなたは容認できるか?という問いです。

・あなたは残り99人が助かるために身を犠牲にするべきである。

これを極論だといえば一聴では論破されたように感じますが、統計というのはこの様に、生存率を上げるというものではありません。全てにおいて死亡率はこの例では0.01%は変化がない事に、厳然として冷徹に同じであることは変わりないのです。

過去の例では、根治・根絶の成果として有名なのが、甲府盆地の日本住血吸虫症の例ですが、このような規模の地方病では、撲滅という視点が最重要視されるのは何故でしょうか?それは恐らく次の1点があるからだといえます。

・全ての住民が感染して多くが死亡する

つまり、生存率が極めて低く、言い換えれば死亡率が少なくとも100分の1よりも高いからです。逆を言えば、治療が確立していなければ、一人の生存者に対して数万人の死亡者が出るため、この事態は深刻です。

では最初の問いをもう一度別の形で提言します。

・感染しても死亡率が低い中で、予防における死亡者を出すことは倫理的と言えるのか?

感染予防対策には、ワクチンの他に狂犬病なら、犬を根絶するという方法があります。しかし我々が犬を根絶しようとしないのは、狂犬病の媒介は犬であって人ではないという思想が背景にあるからです。更に野犬を既に撲滅した結果もここに含まれているはずです。

つまり、感染症の完全予防は感染源と媒介者を撲滅した上で、予防がその効果を発揮した時、感染症は完全に制圧したといえます。これは日本住血吸虫撲滅宣言が事実上、山梨県で公示された経緯からも明確なことです。

私が、以上の倫理的パラドックスの解決を見ない中での、感染症予防ワクチン接種が、全ての集団の義務化のような風潮が流布された時、そこにはいわれのない差別化が表面に現れるだろうと思っています。

ひどい場合は、接種をしない人に「バイオテロリスト」と名指しする人も現れないとも限りません。実際、私自身がインフルエンザに関して差別的コメントをFacebook上で受けています。その人は恐らく倫理観を自負した常識の範疇に入る成人でしょう。しかし、この様に排他的となる人も存在することは間違いのない証明でもあります。

感染症の経緯、感染経路の解明、感染症の根源の研究、予防、これらは同時並行で行われるのが望ましく、その中での犠牲者は予防の周知というよりも、感染の拡大を出来るだけ局所的に集約した上で、1億なら1000万人、更に100万人、そして最終的には10人未満にまで落としてこそ、確率で言う0.01%は、問題とならないレベルに落ち着くのです。

ではもう一度提言します。

・感染者は依然数億人に達する可能性を秘めている中で、予防処置だけに集約して被害者の倫理を捨て去るのは正しいことだろうか?

つまり、私かもあなたかもしれない極めて低い人数の犠牲を軽いものとして置き、大多数が救われるなら止む終えないという発想は、所詮は差別と無関心を呼ぶ起点となりはしないか?

それと、予防は原則として継続する中で、感染確率を引き下げ続けるには、狂犬病予防と同じような継続的、長期的施策が必要ではないのか?という疑問が、現在の風潮に対して私は常に感じるのです。ワクチン至上主義のような報道が多い中、どこか全体主義的な風潮とした雰囲気を感じざるを得ないからです。まるで多少の犠牲は当然だとでも言いたいような専門家、医者、司会者やコメンテーターが多い気がします。

彼らは、わずかに数億人の中で一人でも死ぬ確率ならば、その生命は大多数の同様の命と引換えにする価値があるとでもいうのでしょうか?私はどうしてもこれが認める道理と道義的理由が理解できないのです。

撲滅しないから犠牲は止む終えないという発想は、どうせ負けるから特攻でも良いという刹那的な倫理破綻を露呈しているのと同じです。この結果、過去の悔恨を精査すること無く、過去は単なる記憶として未来への継承は行われなくなるでしょう。

あなたは自分が助かるために他人を殺せるか?差別とは、これを容認して是非を集団の意志として個人を抹殺するところから始まります。私はこれを非人間的と非難します。

この様に、人工的に作り出された暫定的な手段を用いて、根本理念を軽視することは、私は人類の愚かなところだと感じます。つまり、予防すれば万事解決ではなく、あらゆる手段の中の一つに過ぎないという意味でのワクチン接種の選択肢をどう考えるか?が重要なのであって、感染症に対しての対策の本質ではないという厳然たる事実を、多くの人には共有して頂きたいと、今回この記事を執筆しました。

人間の命は人間にとって自由に操作はできないし、また死も同様に人がコントロールするべきではないとうのが、私の根源です。であるなら、ウイルスに戦うという用語を使うのは違和感がありますし、また感染症の研究成果は、予防以上に最重要な課題であり、人命はこの大きな課題を克服するためなら、それを費やす価値が高いと感じます。

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