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この時代、悲劇は本当に必要か?

ドラマでも映画でもアニメでも、最近ではやや悲劇的な展開がやたらに多すぎると感じますが、皆さんはどうでしょうか?

叫んだり、泣いたり、苦笑して笑いながら泣いたりと、私は現実の今の方が、巷には数多い本当の事実が転がっているように見え、作り物のこうした演出は、人の心をコントロールしているのではないか?とさえ思えてしまうのです。

それに喜怒哀楽を他人が想像で作ったコンテンツに利用されるのは、なんだか薄気味悪いと感じているからなのかもしれませんが。

リアルの感受性を大切にしたい

幽霊や魂の存在、あるいは信仰の中にある心、心理、精神とは何か?私が思うに、それが真の繊細な人の感受性だと思います。私は、働いてお金を得、消費することで様々な物やサービスを得て満足してきた、これまでの暮らしを一部捨てることにして、早4年以上になります。

「拾う」、「貰う」、「借りる」、「頂く」・・・人によっては、これは自分の尊厳を傷つけるものかもしれません。しかし、私はそこに敢えて身を置くことで気がついたことがあります。それはすべての物に愛着を持てるようになったことです。

愛着とは、手にした心や物、事象が時間とともに擦り切れ、廃れて滅び去る様子を間近で見ることになります。そして最後はどうにも自分の力ではどうにもならなくなる。この時、初めて”お別れ”がやってきます。

私は、この時に思う様々な思いや記憶が、私の感情を揺さぶる時、人工的に作られてしまった笑いや悲しみや怒りよりも、生の生きている心の動揺と時間の経過を実感するのです。

知らず識らずの内に、私は今まで心まで消費していたのでしょう。だからこそ、もう悲劇は要らないのです。そんなものに対価を払ったり、わざわざ進んで悲しみや絶望を拾って、その落差で感動を得ようと無駄な努力をする必要はないと感じています。

物を大切にするというのは、出し惜しみをすることではありません

お気入りの服を大事にしまって、「ここぞ!」という時に着るような心理がよくあるでしょう。私は間違っていると思います。どんな服も、買ったままでは自分の物にはまだなってはいないからです。

着古していく・・・そうではなく”こなれる”には、曲がるところは伸び、シワや伸びがあって、それが何度も繰り返されて、やがて生地は自由に伸びやかになるものなのです。

その風合いを喜べず、真新しい事が心地よく感じるというのは、それはお金を使って心を売り、手にした物品で感受性を失った状態と私は思うのです。

私はこれまで、自分が過去に手放した服に後悔をする日々です。あの服が今あれば、どんなに素晴らしい着こなしが出来ただろうと思うからです。それでもかなりの量を持ってはいるのですが、1年を通じて袖を通せない服も多い中で、私はこれら全てに今では愛着を感じています。

もう手放す気にはなれません。

消費行動は否定しない、だが度が過ぎるのは恥と思え

最後に、私が伝えたいこと。

現代は惣菜でも料理でも水でもお金でなんでも手にする時代です。しかし、それだけ人のやることは激減しています。出来ないことがまるで素晴らしい、当たり前のような消費を礼賛するという気持ち悪さです。

そんな中、感動も現実の事象よりも、人工物、創作物に惹かれていき、たくさんの物とサービスに囲まれながら”寂しい”、”孤独だ”と嘆くのは哀れではないでしょうか?

人はその気になれば、カラスの心とも会話ができるのに。


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