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物事はある程度まで複雑になると、簡単な構造になろうとするよね

ユダヤ教からキリスト教が生まれたように、また日本で鎌倉仏教が生まれたように

新約聖書を読むと、イエスの一派はユダヤ教のパリサイ派と仲が悪かったのかな(小学生並みの感想)という感じで超簡単だけどパリサイ派から分裂したと今回は考えることにします。

パリサイ派とは新約聖書内ではユダヤ教の中でも戒律を厳格に守り、守らせる派閥のようです。
ちょっと話が逸れますが、私はパリサイ派というと食事の前に手を洗う戒律の話を思い出します。イエスはこの戒律を外側は綺麗にできるが内面は出来ないみたいなことを言って批判するのです。
それを読んだ時、もしかしてのちにヨーロッパでペストが流行ったのはこの戒律がなかったせいかもなと思ったりします。
話を戻すと先ほどの話から分かるようにキリスト教はパリサイ派に比べ戒律が簡略化されていると言えるでしょう。
また鎌倉時代までは日本の仏教といえば奈良仏教や空海などの伝えた密教が盛んで、複雑な教えや複雑な儀式を行う必要がありました。しかし、鎌倉仏教では多くでは庶民に広める関連から単純な所作で問題ないという形に変わっていきます。
浄土宗であれば南無阿弥陀仏と唱えるだけ、時宗だったら踊りといった具合にシンプルになっています。
これって簡単に言えば習慣化して行っているんですかね。形式は複雑さを保ってられず簡単なものになるっぽい。

生物だってそうかも

単細胞生物は、進化していき細胞内に様々な機能を持つ小器官を備えていったように見えますが、ある程度までいったら、そこまでの複雑性を高めることが出来ないように見えます。
また、生物の歴史の中で単細胞生物が集まって群体を成したり、多細胞生物が生まれてきます。多細胞生物はグループごとに各部分ごとに別れて器官をもつ生物になっていきます。
何が言いたいか。つまり、一つの細胞の複雑さは限界があるのかもしれないというかとです。より複雑になるには部分は単純でも組み合わさることで複雑な生命になるしかないのかもしれません。

経済も

生物がそうだったように、人の営みも個人が色々やるのではなく、分業していくようになる。分業の規模が大きくなっていく。企業も巨大になり、帝国主義時代には国家も巨大になっていきました。植民地にしたり、併合したりで大きくなっていった。しかし、数々の植民地は結局独立していったのが、やはり一国での複雑性はある程度まだしか高まらなくて、分裂してまうのかな。

ふわっとしているけどやはり複雑化は限度がある

ここまで書いてきたように複雑さは限度があり、いずれ簡単な構造やその組み合わせになってしまうことが多いようです。
だからといって、何が問題かと言われると一向に解体されないGAFAのような巨大企業がいずれ分裂するとか、国が小さくなって老子の言うような小国寡民が実現するとか、わかりませんが…

まとめ

まぁ、なんだかんだテキトーに書いてきましたが、プリゴジンの散逸構造を厨二病的拡大解釈した妄想の科学を書いてみました。まあヘッダーに書いたとおり妄想科学ということで、日々思いついたことをこれからもテキトーに書いて行けたらいいなと…

今回の注意

この記事の論法のようにいくつか事例を出して、それをさも一般的だというのは有名な詭弁の手法なので、気を付けましょう。


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