プリティーシリーズを見てください_

心は無意味ではない;『プリティーリズム・オーロラドリーム』を見てください!

一つのアニメが好きだという感情。この感情は個人的なもので他人にとっては無意味かもしれない。だからこそ、この感情を無意味にしたくなくて私はアニメを紹介するのだと思う。今回の記事で紹介するのはプリティーシリーズ最初のアニメ作品『プリティーリズム・オーロラドリーム』だ。私は『プリティーリズム・オーロラドリーム』が無意味ではないもの、つまり本物であってほしいと思う。なぜなら、この作品は私の心が無意味ではないということを物語ってくれるからだ。

私がアニメを紹介する理由

前回の記事『世界を変えるアニメ「プリティーシリーズ」を今からでも見るべき3つの理由』に続いてシリーズ各作品の紹介記事を公開するつもりだったが、なかなか書き出せなかった。

そもそもアニメという娯楽は個人が好きで視聴するもので、流行っているから、役に立つから、と他人から言われて楽しむようなものではない。前回は流行とか話題性でそれらしい記事にまとめたが、いよいよ個別の作品に触れるとなれば筆者の私はその作品が好きだという感情を語らなければならない。アニメを紹介することは私の個人的な好みを語った上で他人に見て欲しいと言うことでしかない。こんなわがままを記事にする以上、私は作品に対する自分の感情を誠実に語らなければならないと思った。とにかく誠実にしようと悩んだのが、記事を書き出せなかった理由だった。

今回紹介するのはプリティーシリーズ最初のテレビアニメ作品『プリティーリズム・オーロラドリーム』だ。この作品を私がどのように好きで、なぜ人に見せたいと思っているかを最初に述べておこう。私は『プリティーリズム・オーロラドリーム』が本物だと思うくらい好きで、『プリティーリズム・オーロラドリーム』を本物にしたいから多くの人に見せたいと思っている

私が「本物」という言葉で意図しているのは「無意味ではない」ということだ。アニメ作品が無意味ではないとはどういうことか。それはアニメ作品の物語が現実に対する影響力を持つということである。アニメが現実に影響すると言うと空想と現実の区別がつかない子供のように思えるかもしれない。しかし物語を見たり聞いたりすることは「もし〜だったら」と想像する思考実験を通して現実の世界の見方、言うなれば現実観を作り変える機会になる。例えば名作と言われる小説は読者が体験したことのない出来事を想像させ、読者が実際に会ったことのない人物の心情に共感させる。このとき物語は読者にとっての現実へと引き寄せられる。物語に触れる前の読者の現実観に読者が物語に触れて想像した新しい現実観が融合するということだ。
小説の例と同じようにアニメの物語も人の現実観を変え得る。確かに私はアニメの登場人物が現実の世界にいるとか、アニメの劇中に描かれる超能力やらを実際に使えるなどとは信じていない。しかし私が持つ現実観を大きく揺さぶるアニメ作品は確かにある。そういった作品はただ消費され忘れ去られる無意味なものではなく、私が見る現実の中に生き続けるのだ。
つまり『プリティーリズム・オーロラドリーム』は私の現実観を大きく変えたアニメということだ。そして私はこの作品が現実観を変える体験を多くの人にして欲しいと思う。私の現実観を変えたこの作品の物語はどんなものか、なぜ私がこの作品を多くの人に広めたいのか、これから述べたいと思う。

オーロラドリームのストーリー

前置きが長くなったが作品の紹介を始めよう。『プリティーリズム・オーロラドリーム』はプリティーシリーズ最初のテレビアニメ作品として2011年4月から全51話が放送された。『プリティーリズム』とはタカラトミー・シンソフィアが開発した女の子向けアーケードゲームのタイトルでもあり、このアニメはゲームとのタイアップ作品として製作されている。

以下、『プリティーリズム・オーロラドリーム』をオーロラドリームと略称してストーリーを紹介しよう。

主人公の春音あいらはお洋服が大好きな中学2年生の女の子。ある日あいらは偶然出会った天宮りずむと一緒に大人気のエンターテイメント、「プリズムショー」に出演することになる。プリズムショーでは華やかな衣装でアイススケート靴を履き、歌とダンスを披露する。そしてプリズムショー最高の目玉は観客に鮮明な演技を見せる「プリズムジャンプ」だ。プリズムショー初体験で運動も苦手なあいらはスケート靴を履いたままステージに座り込んでいたが、衣装が発する声に導かれてプリズムジャンプを成功させる

プリズムショーを成功させたあいらとりずむの二人は新人プリズムスタアとしてデビューする。あいらはプロダクション会社の社長の勧めで活動するにつれてプリズムショーの魅力を見つけていく。そしてりずむは究極のプリズムジャンプ、「オーロラライジング」を絶対に跳ばなければならないある理由を胸に秘めて、プリズムスタアとして努力するのだった。

プリズムショーの実力も兼ね備えたカリスマモデル、高峰みおんもあいらとりずむの仲間に加わり、三人は共にプリズムスタアとしての芸能活動と選手活動に邁進していく。オーロラライジングを習得し、最高の女子プリズムスタア、「プリズムクイーン」になることを目指して。しかし三人の前にはオーロラライジングにまつわる悲しい過去が立ちはだかっていた。あいら、りずむ、みおんはそれぞれの思いを胸にプリズムクイーンを決める戦いに挑む。

以上がオーロラドリーム全51話の大まかなストーリーだ。上で述べた通りオーロラドリームの話の中心はプリズムショーでプリズムジャンプを跳ぶことにある。この作品の最も重要な概念であるプリズムジャンプについて詳しく説明しよう。

プリズムジャンプとは跳躍するプリズムスタアの心が表現される技である。具体的にはプリズムジャンプによって観客に鮮明な映像を見せたり、プリズムスタアの背中に羽根が生えてステージの上を飛んだり、本物の雪を降らせたりフルーツを出現させたりすることができる。現実のフィギュアスケートのジャンプがモデルになっているが完全に別物だ。プリズムジャンプにはスケートの運動能力や技術を越え出た描写が数多く見られる。
プリズムジャンプはプリズムスタアの心を見たり触れられる形に実体化させる。したがってプリズムジャンプを競う競技ではプリズムスタアの心のあり方が問われるのだ。劇中では競技を前にしたスタアたちが様々な困難に直面するが、困難に対してより強い意志で、そして自分の心に正直に演技に臨んだプリズムスタアがより高く、完成度の高いプリズムジャンプを跳ぶことができる。
オーロラドリームにおいてプリズムショーに関わる人物は全員がより高くより美しいプリズムジャンプになるスタアの心の可能性を追い求めている。オーロラドリームのストーリーは人の心の可能性を追求するストーリーなのだ。プリズムスタアたちの心が究極のプリズムジャンプと呼ばれるオーロラライジングへたどり着いた時何が起こるのか。その答えは実際にオーロラドリームを視聴して確かめてもらいたい。

オーロラドリームは本物なのか

この記事の最初に私はオーロラドリームが本物と思っていると言った。ただし私は羽根を生やしたり本物のフルーツを出現させる現象が本当にあると思っている訳ではない。私は別に超能力が欲しくてこのアニメを好んでいるのではない。私がオーロラドリームに心揺さぶられ続けている理由はこの作品に私の現実観を変えられたことにある。オーロラドリームは人の心に関する私の現実観を変えてしまったのだ

人の心というものは謎に包まれている。心は直接見ることも触ることもできないし、心がなぜ存在するかもわからない。私たちはただ人の仕草によって心の状態を推測し、捉え所のない感覚を自分の感情と名付けているだけだ。人の心とはいったい何だろうか。その答えはどの学問分野でもいまだにはっきりしない。

人の心に関する問いは思想哲学の分野でも特に重要視されている。この分野での人の心に関する考え方は唯物論独我論という二つの主義に大きく分類することができる。少し専門的な用語だが、簡単に解説しておきたい。
唯物論とは、誰の目にも見えるものによって全てを説明する考え方である。例えば脳細胞の配置や伝達信号のパターンによって人の心を説明しようとする。科学と唯物論は共通する考え方が多く、客観的な考え方だと言える。
独我論は、主観こそがあらゆるものの基礎だと説明する考え方である。独我論では人の心は生きている人の主観に他ならないと説明される。独我論は客観的な考え方と対照的なので、非科学的で間違った考え方だと批判されることもある。しかし独我論は人の心や知覚が他人には直接体験できないという現実に根ざしており、必ずしも無根拠な考え方とは言えない。

唯物論独我論は相反する考え方として長年捉えられてきた。しかし、この二つの考え方が反目し続けている間は人の心に関する謎が解決しないままだ。それどころか二つの考え方の対立は、人の心は無意味ではないかという不安を掻き立てしまう。唯物論において心は身体組織の化学反応や電気信号の組み合わせにすぎず、人の心は物体としての身体に還元されてしまう。独我論は人の心の存在を確実視しているようだが、その存在の仕方はひどく不安定である。なぜなら森羅万象を主観の産物とする独我論では、人の心という概念自体もまた主観によって生み出されるからだ。唯物論と独我論についてはかなり省略して説明したが、結局これら二つの考え方のどちらが正しいかと単純に議論したところで人の心を確固とした意味のある概念にはできない。結果として人の心という概念は無意味ではないかという不安が生まれてしまう。

オーロラドリームが描く物語は人の心が無意味だという不安に立ち向かっている。ストーリーの紹介で述べた通り、オーロラドリームはプリズムジャンプによって人の心の可能性を追求していた。問題はオーロラドリームが現実に抱えている私の不安に関われるかどうかである。確かにオーロラドリームが描くプリズムジャンプは非現実的なもののように見える。しかし、プリズムジャンプの背景には人の心に関するオーロラドリームに独特な思考がある。その思考は私の生きる現実にも妥当すると私は考えている。

ストーリーを紹介した項で、主人公の春音あいらが初めてプリズムショーをした時「衣装が発する声に導かれてプリズムジャンプを成功させた」と述べたことを覚えているだろうか。衣装は目に見えて手に触れられる物体である。何故物体である衣装が人の心を表現するプリズムジャンプの手引きになったのだろうか。それは人の着る衣装が人の自己像を形成するからである。言い換えると心の中にある「私」というイメージには服を着ている「私」が含まれているということだ。すなわち私の心は私という存在に加えて服という物体もまた含んでいる人の心は独我論的な主観と唯物論的な物体を共に含んで成り立っているのだ。この心に関する洞察がオーロラドリームに独特な心についての思考である。

人の心が無意味ではないかという不安は、独我論か唯物論かという二者択一の状況下で生まれた。しかしオーロラドリームは二者択一の縛りから私を解放する。人の心は主観と物が共に形作るものだ。そして人の心が無意味だと考える必要もない。なぜなら今や主観と物は互いに反目するのではなく、共に心があることの根拠になるからである。こうして私が感じていた不安、心に関して持っていた不安定な現実観は、オーロラドリームによっていわば救済される。

オーロラドリームを見てほしい本当の理由

オーロラドリームというアニメを好きだと思う私のこの心は、オーロラドリームそれ自身によって救済される。オーロラドリームが描いたものはただの絵空事ではなく、人の心のあり方に関する物語なのだ。だから今私ははっきりとオーロラドリームを見て欲しいとこの記事を読む人に向かって言う自信が持てる。

私がこの物語に出会えたのは、オーロラドリームを見て感動したからに他ならない。春音あいらが、天宮りずむが、高峰みおんが、そしてこの記事では紹介しきれなかったプリズムスタアたちがプリズムジャンプを追い求める姿を通して私は人の心のあり方に気付かされたのだ。プリズムジャンプへと飛躍したスタアたちの心は、そしてプリズムジャンプに感動した私の心は無意味ではない。この心は確かに存在する。だからこそオーロラドリームを見たことのない人たちに証明したいのだ、オーロラドリームを見れば心の存在に気付くことができるということを。これが私が『プリティーリズム・オーロラドリーム』が好きで、この作品をみんなに見て欲しいと思う理由である。