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『ユートロニカのこちら側』を読んで

あらすじ
(本書、裏表紙より)
巨大情報企業による実験都市アガスティアリゾート。その街では個人情報ーー視覚や聴覚、位置情報等全てーーを提供して得られる報酬で、平均以上の豊かな生活が保証される。しかし、誰もが羨む彼岸の理想郷から零れ落ちる人々もいた……。苦しみの此岸をさまよい、自由を求める男女が交錯する6つの物語。第3回ハヤカワSFコンテスト〈大賞〉受賞作、約束された未来の超克を謳うポスト・ディストピア文学。解説/入江哲朗

朝7:00に目覚ましが鳴る。
リビングに降りると、いつも通り食パンを1枚、トースターに入れ、コーヒーをカップに注ぐ。
民放のニュースが芸能人の不倫を面白おかしく伝えている。それを観ながら、「あんなに良い奥さんがいるのに。公に謝罪すべきよ!」と妻が憤っている。

満員電車に揺られ、オフィスに向かう。
ネットニュースのタイトルをスライドさせながら、イヤホンからは流行りのアイドルの新曲が流れる。
恥ずかしげもなく優先席に堂々と座る若者。ここが何のための席か知らないのか、全く。

納期に間に合うよう、決められたマニュアル通りに業務をこなす。
細分化された仕事、自分の仕事が何に繋がっているのか、若い頃はやりがいを求め考えたりもしたが、そんなことも面倒になった。
熱意は必要ない。部長のご機嫌取りと、決まった業務を決まった通りこなすことが大切だ。

金曜日は同僚と銀座で一杯。
上がらない給料と高い税金への文句を肴に酒を飲む。

今週も疲れた、疲れた。

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個人情報を提供することで、働かずに安全で豊かな暮らしが保障される仕組みやサービスは残念ながらないけれど、私たちの生活においても、"向こう側"へ存在することは、そう難しくない。
情報のあふれる社会で、思考を止めてその表面を舐め取り、そこにある言葉や表現を素直に受け入れ、怒ったり笑ったり泣いたりする。
意味を考えずにやるべきと決まっていることをやり、社会で当然とされていることへは疑念を持つこともなく、同じ道を進む。
ストレスを溜めすぎずに生きるという点では、むしろ健康的かもしれないとも思えてしまう。

人間が生まれ、生きる理由が『生命活動を維持し、命を繋いでいくこと』ただ生物としてのそれなのだとしたら、また、そう生きることを人間が望むのであれば、アガスティアリゾートの存在はディストピアと定義することはできないのではないだろうか。


テクノロジーは進化し続け、私たちの生活はますますそれに依存していくだろう。
人間が自分で必死に調べ、考えあぐね、選択し、振り返る機会は今よりもっと減っていくのかもしれない。


でも、わたしは"こちら側"の人間でありたいと思う。

大失敗した時のヒヤリと肝の冷える感覚も、どうにもならない世界の状況へのやり場のない怒りや絶望、取り返しのつかない出来事へのもどかしさや底無しの悲しみ、眠れない夜にカーテンの隙間から明かりが入ってくるまで人生の意味について考える意味を考えること、宇宙の謎について想像することも、わたしは感じ考え続けたい。

それらを知っていることで感じることができる、日々の小さな喜び、当たり前な毎日を送れる幸せ、隠された皮肉たっぷりのジョークや、創造の素晴らしさ、人間の面白さを噛み締めることができると信じているのだ。

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