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(特に理由もないが)ちくま学芸文庫全読破を夢想してみる

ちくま学芸文庫全読破の野望

先日、ちくま学芸文庫の既刊2019冊をリスト化したというnote記事を目にした(註:かるめらさんの記事参照)。大変な力作で、上から下まで眺めるだけで、結構な時間がかかった。

タイトルと著者名を見ているだけでも、なんとなく勉強した気になるのだが、しかし、本はやはり読まれてこそ価値あるものであるはずだ。
(なお、これは大量の積読を抱え、日々背表紙を眺めるだけで充足している自らへの自戒と自虐をこめた言葉である。)

そこで、僕は一念発起し、発刊されたちくま学芸文庫全2019点の全読破を試みることとした。

特にこれといった理由はない。
講談社文芸・学芸文庫や岩波新書も、いずれは全読破したいと常々夢想していた。なんなら、世界中のあらゆる本を読みたいと常に夢想してきたのである。
小さいころから将来の夢は読書家、理想の住まいは図書館であった。

それに、僕は教養主義へのある種の稚拙な憧れをもっていて、ありとあらゆることを知っていたいし、文系とか理系とか関係なく、どんなことでもいっちょまえに語れるくらいには造詣を深めておきたい。
いつでも目標は百科全書になることだ。

というわけで、せっかくリストを見たのだ。
手始めにちくま学芸文庫から制覇しようではないか。

いざ。

読まぬ文庫の皮算用

やみくもに1冊ずつ読んでも一生かかっても読破できまい。
こういうときは、綿密な計画を練ることが肝要である。

仮に1日1冊読んだとすると、年間365冊(ないし閏年は366冊)。
ちくま学芸文庫は年間に60冊程度刊行される。
とすると、1日に1冊読んでも6年半近くかかる計算である。

正直言って舐めていた。
僕は、セリヌンティヌスを迎えにいくのをやめようかと思うくらいには絶望した。
単行本を再録しているものもあるとはいえ、月に5冊ペースで新刊が出ているのはすごいことだ。それも1992年の創刊以来の積み重ねがある。
畏敬の念さえ覚える。
ちくま学芸文庫、ありがとう。

現実的に1日1冊ちくま学芸文庫を読むことは不可能なので、多少なれど現実的な目標を考えてみるとしよう。

20年かけて読破するとなると、20年=7305日(閏年が5回ある)。
順調にいけば、ちくま学芸文庫は全部で約3219冊になっている計算だ。
2.27日に1冊を読むペースでなければ、20年たっても全読破は不可能だ。
30年に期限を伸ばしても、同様の計算だと2.87日に1冊のペースだ。
(40年で読破、とするとやっと3日に1冊のペースでもよくなる。)

もうおわかりだろう。
一週間に一冊、などと悠長なペースで読んでいては、ちくま学芸文庫自体の増殖に追いつけず、いつまで経っても全読破など不可能なのだ。

少なくとも2日に1冊くらい読んでいかなければ、道半ばで自分の人生が尽きてしまうなんてことにもなりかねない。

ストイックな読書者の夢想

お気づきかもしれないが、この記事の真の目的は、実際にちくま学芸文庫の読破を目指し、ストイックな読書道に突き進んでいくことではない。

2日に1冊という数字は正直、まったく現実的ではないからだ。
全読破というゴールに僕がたどりつくことは多分ない。
(ごめんよ、セリヌンティウス。)

しかし、むしろ僕としては、ちくま学芸文庫、という日本の一出版社の一レーベルだけでも、たぶん一生かけても全読破することはできない、という事実を確認するだけで十分意味があった。

本を出版するという行為、あるいはそこに書かれた知自体、多分に集合的なものであって、一個人を大きく超越したものなのだ。
それでも、悲しき教養信者としての僕は、ちっぽけな自分の脳味噌のなかに、できる限りの知識や教養を集積する。ちくま学芸文庫を全読破する野望、この世界の全部の本を読みたいという幼いころからの憧れを完全に捨て去ることはないだろう。

本を読むことは、自分を超越した何かに触れたい、自分を超越した何かになりたい、と望むことであり、同時に自分の限界に気がつくことそのものだからだ。つまり、読書することは、超越への意志とその不可能性のあいだで考えることに他ならない。

僕はちくま学芸文庫を全読破することはできない。
だけど、これからも一冊一冊、ちびちび、とぼとぼと死ぬまで読んでいくだろう。
誰に命令されるでもなく、その先に何も待っていなくとも。


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