「非常時」とはこなすものなのか

つくづく思うが、私は非常時に弱い。よせばいいのに、Twitterなど見てしまい、明らかに愚策としか思えない政府の行き当たりばったりの措置に、ご丁寧にひとつずつ憤っては身を落ち込ませてしまう。○○県で〇代の〇性が感染、などというニュースをみると、「明日も我が身」と身を固くする。人と来週の約束をするときも、「この約束が実現することはある種の奇跡だな」と切なく思い、会えた時は「この人に会えるのも最後かもしれない」と小さい覚悟を決めている(多分とても失礼だ)。つい嗜好品を買い込んでしまう。昨日フラフラの体でKALDIに行ったがすさまじかった。数日では消費できるはずのないお茶とスープをかごに入れると、「なんやわたし生きる気満々やん」とちょっと笑ってしまった。というかそういう言葉が沸き起こる自分の状態に「そこまでなのか」とちょっと引いてしまった。

終末期感に悦に入っているならまだよい。そうではなく、それぞれがすごく具体的かつ冷静な実感なのだから困った。そういったことを最近感じているということを昨日同僚に話したら、とても驚かれ、ある医師が書いた対処法のマニュアルを送ってくれた。自分はいわゆる「過度に恐れる」一人になっている。

昔から、非常時にヒステリーを起こす大衆を揶揄する側に立つことが決してできない。東日本大震災の時、震度2の石川県でクラスの中でただ一人机の中に身を収めた自分は、決してそうはなれないだろうと諦めている。この3日間ずっと背中が痛いし頭痛がする。この土日に送別系の予定が2件あったがどうも体調が振るわないので大事を取って断ることになった。しかしこの判断はとても迷った。明らかに控えたほうがいい体調に違いないのだが、こういった判断を取ることで、自分の中の非常時感が高まってしまうのではないかと思ったから。

非常時に対するこういった振る舞いや価値観自体が、なんらかの差別と排除と地続きであるのかもしれない。そういったものと絶対に親和しない言葉を私も書きたい。でも、「これは非常時ではない」―だから普段と変わらぬ毎日を!と謳うことも、その渦中に身を置き対策をタスクのようにこなすことも、今は、どちらもとてつもなくしんどいと思う。しっかりと立った人によって放たれる言葉全てに後ろめたさを感じては、ふにゃふにゃと布団にくるまらざるを得ない。ここに明らかな事実として、気分と体調の変動があるのだ。普段と変わらぬ毎日を送りたいのに、まったく普段と変わらぬ毎日を送れていない。ということを私は決して軽んじることができない。

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