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「聞く」映画

小森はるか監督『空に聞く』を見た。東日本大震災の直後、2011年12月から約三年半、「陸前高田災害FM」でラジオのパーソナリティを務めた阿部裕美さんを撮ったドキュメンタリーである。小森さんは『生活の批評誌』no.4で取材させてもらった瀬尾夏美さんが一緒にユニットとして活動されている方で、以前からよく名前をお見かけしていた。作品を見たのは初めてだ。


見る前は、現地で活動するラジオパーソナリティの女性の「伝える」さまを撮る作品なのだと思っていた。震災後の現地の現状を、今の心境を、そして未来について、震災を経験した当事者として発信し続ける彼女の奮闘を撮った作品なのではないかと。でも違った。想像以上に「聞く」さまを映す映画だった。

もちろん「伝える」様子はたくさん映る。作品は実際のラジオの放送シーンから始まるし、少し棒読みのその声にはなんとも言えない力があって、冒頭の放送風景だけで涙が出てしまう。でもそれ以上に印象的だったのは、仮設住宅に住む方や、復興事業に関わる人、あの時あの場所を共有していた誰かに、阿部さんが何かを質問するその姿だ。

彼女は「実際に今陸前高田に生活している人の声が最も様々なことを伝えてくれるから」と、様々な人に話を聞きに行き、それを番組で放送する。インタビューは、笑いと冗談と笑顔に満ちていて楽しげだ。その中のあるインタビューで、阿部さんが震災を経験した地元の方に「(津波がひいたあと)まっさらになった土地に降り立った時、どうでしたか」と聞くシーンがあった。そのとき阿部さんは、「どうでしたか」のあとに小さい「っ」を書き込みたくなるくらい、なにかを噛み切るように言葉を止め、思い切った口ぶりで質問を相手に手渡していた。なにか大事なことを決断するような、ぱつんとした言葉の断ち切り方に驚いた。その時私が驚いたのは、「同じ」津波の被害に遭い、今も「同じ」街に住む人に対してなら、いわば「同じ」「わたしたち」同士なら、気兼ねなく聞きあえるものだと、そう思い込んでいたからかも知れない。当然そうではない。この問いがどう相手に受け止められるのか、少しの勇気や思い切りを必要とするのは、たとえ少しの「同じ」があったとしても変わらない。緊張があった。

仮設住宅で出会った85歳のおじいさんを「ボーイフレンドみたいよ」と笑い、なんだかウマが合うからとあるおばあさんのところに通う阿部さんにとって、ちゃんとその人は他の人と違うその人ただ一人だ。当たり前だけど、構造で外部から見る私が、忘れてしまいがちなこと。

「復興」は進み、議論になった土地の嵩上げ事業についてもラジオ放送は取り上げることになる。住民に見守られながらのラジオ放送、その事業の問題点を指摘する投稿はがき(?)を読み上げる別のパーソナリティの声を聞きながら、阿部さんはぐっとこらえるような神妙な面持ちで下を向いていた。

パーソナリティ卒業の時を迎え、最終回の放送を終えたとき、ラジオ局の建物の外でねぎらいの言葉をかけるため待ち構えていた何人かの住人と阿部さんは抱き合っていた。その時、あるひとりのおばあさんが泣く阿部さんの頭を撫でながら、「もう終わったから、もう終わったからね」となだめるように声をかけていた。その声は、激しい台風が過ぎ去ったあと、その動揺を引きずる誰かをなんとか安心させようとする、あの時のようだった。

放送を終え、「非日常的な未知の世界をふわふわと生き続けていた3年半だった」と言っていた阿部さんにとって、その年月は、笑顔と声に満ちた、淡々と続く終わらない台風のようだったのだろうか。それは、もう終わったのだろうか。私が決断づけることができないけれど、あの丁寧に合わせられた断片から、そういうことを考えた。


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