マスクの付け方

最近なにかとマスクをつけることが多い。
風邪ではないのにマスクを着用することを「伊達マスク」と呼ぶらしいが、イヤリングをつけることすら恥じらい、不要不急のマスク着用経験が極めて浅い身としては、この日々はなかなか新鮮だ。
朝、職場に着いたら共有スペースの箱から片面が妙にあざやかなピンクの小さめマスクを一つ取り出す。上部についた針金をぎゅっと鼻に押し当て顔面にできるだけ密着させる。お昼のひとときはそれを取り外し、横の公園で弁当を食べる。午後、席に戻って10分後、あ、忘れてたともう一度着用する。そのまま終業まで身につけて、タイムカードを押し、32系統に乗り、家に帰ったら脱皮のごとくゴミ箱にイン。その瞬間は、一日の汚れをまとめて捨ててしまえたような気がして、なんだか妙にすがすがしい。

そんな日々でふと気づいた。口元が隠れていると、心が堂々としてくる。しゃべるスピードも心なしか早くなり、一息で発する言葉の数が確実に倍増している。普段なら言いにくくてひっこめることの7割を発言するようになっている。言葉の切り返しも激しい。もはやツッコむことすらある。
どうやら普段の私は口元でいろんな感情を表現しているみたいで、不可解なことがあると瞬時に眉間と口元がゆがむ。「あんときかしだなすげー不満げだったよな」といわれる時は(とてもよくある)大抵その2点が形を崩しているのだ。そのことについて長い間無自覚で、今でも表情筋の伸縮を制御できない自分の幼稚さを呪いたくなるが、まあそのおかげで反射的に成功してきた抵抗もあるような気がする。
しかしマスクをしていると、そういった心の揺れのようなものがほぼ全て、といって良いくらい隠すことができる。「はあ?なんやそれ」と思っても、目だけは動かさないように前を見据えて、すうっと心落ち着けて、すっぱりと明快な言葉で問題点などを指摘しさえすれば、冷静冷徹な官僚のようである。半ばコスプレしているような気分で、職場で真矢ミキ風に存在する好奇心を満たしていた。

そうして自信に満ちて堂々と振る舞っていたらどうなるか。「かしだなさん、げんきないね、疲れてる?」と一言、同僚がチョコレートを差し出してくれたのだ。個包装されたクランチチョコレート。

これまでの経験だが、「げんきがないね」と言われてその実私が元気なときは、大抵「機嫌が悪そう」という意味だ。なんだか様子がおかしい、いやなことあった?でもいい。とにかく、口元を隠して堂々と振る舞っている私の自信は、その人にとっては不機嫌と不調のサインに見えたのだろう。普段がちゃきちゃきと気立てが良いから致し方ないともいえる。
だが、実は昨日の夕方くらいから気づいていた。私は、残酷なことを言いたくなっていた。相手が言われたくないことを、あえてすっぱりと言ってしまいたいような、言わないで欲しいとまなざしてくるその目を、あえて無視して踏みにじりたくなるような。相手に感情を見せない、ということは、すなわち相手の感情も見ないようにできるということだ。自分の感情を隠せば隠すほど、相手の感情がどんどんどうでもよくなってくる。無感情なコミュニケーションを、一方的に突きつけることができるのだ。現に私は職場で言いたいことを言いすぎて、1人の同僚を落ち込ませていた。それすらも、なんともないと思おうとしていた。

こわいことだ、と思った。マスクを着けたくない、と思った。
とはいえ今マスクは着けなければならないようなので、それはできない。ではどうするか。白い布きれで断絶された私と相手の間にある感情を、取り逃さないように捕まえて、丁寧に差し出し合うしかない。

そういえば、今日たまたまテレビを見ていたら、国の偉い役人さんが、くろーい服にちっこいマスクを着けて、意味不明なことを言ってたな。その宣言が、なかなかひどいものであるということだけはわかった。その人は、ぼんやりとした目をして、それでも声は堂々と、残酷なことを言っていた。わかるよ。マスクつけるとぼーっとするよね。残酷なこと、どこまでも言ってしまいたくなるよね。でもね、そんな危険な布きれをどうやって扱えばいいのかを、私は、少なくともあんたよりは分かろうとしてる気がするわ。

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