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能登半島ボランティア活動レポート(2/11〜2/15)

2024/2/11〜2/15、能登半島地震で被害を受けた地域の災害ボランティアに参加しました。
石川県小松市で生まれた私も、何度も足を運んだ能登半島。とりわけ父が生まれ育ち、祖父母が暮らしこよなく愛した珠洲を襲った甚大な被害は、ニュースで見るたびに胸が苦しくてたまりませんでした。
祖父母はこの2〜3年に亡くなっていて、珠洲には2人が残した一軒の家のみ。倒壊は免れたものの、隣家はつぶれ、家の中は家具が倒れ、ものが割れ、住める状態ではありません。
災害ボランティアとして民間の支援団体に参画した5日間について書きます。

▶︎どんな形でボランティアに参加したか

石川県では「能登半島地震・石川県災害ボランティア」として県単位での一般ボランティアの派遣を行っています。登録者は2万人を超えている一方で、1日に1地域で受け入れられる人数は数十人という報道もあり、人手不足が指摘されています。
現地でボランティアをマネジメントする災害ボランティアセンターの人も多くは現地の被災者。余裕と時間と人手不足は想像するまでもなく。
やむを得ない一方で、非常事態の有象無象の「助けてほしい」という声や「助けたい」という思いを管理・統制することが本当に最適解(そもそも可能)なのか、「ボランティアを適切にマネジメントすべき」というルールと圧力自体が現地の人にとって負担になってないか、疑問に感じます。

私も県のボランティアに登録していましたが、実施日の4〜5日前に募集メールがくる→期日までにエントリー→活動できるかわかるのは実施日の前々日、といった遠方からではかなり計画しにくいものだったので、早々に別の手段を考え始めました。そこで、もともとパートナーが繋がりがあった「被災地NGO協働センター」という地震発生直後から七尾市に拠点を置いて活動している神戸市の民間団体に連絡をとり、上記の日程の活動を申し込みました。こうして数々の民間団体が、能登入りして日々活動しています。

▶︎活動拠点について

「被災地NGO協働センター」の活動拠点となっている七尾市中島町の「小牧集会場」に寝袋で雑魚寝する形で現地に滞在しました。七尾市は8日に一部生活用水が出始めたばかりでした。
その集会場には大きな研修室があり、全国各地から届いた物資を陳列され、被災された方が支援物資を自由に持ち帰れるスペースになっています。近隣の方はもちろん、車を走らせて別の市から来られる方も。日夜さまざまな方が訪れ、自分や周囲の人が必要とする物資を持ち帰っていかれます。他にも炊き出しが行われたり、整体やヘアカットのイベントがあったり、温かいお茶を飲んでほっとできたり。被災以来離れ離れになっていたお友達同士が再会して、「会えて良かった」と何度も口にしながらお茶をしていました。
詳しくは団体の投稿へ☟
https://m.facebook.com/profile.php/?id=100064591935647

印象的だったのは、会場に「ルール」の貼り紙がほぼないこと。それは後日訪れた避難所や行政関連の施設とは全く違う光景でした。一部の避難所では、物資が届いても、均等に・平等に配布することが原則であり、全員に配る数が足りない物資はそもそも配らないという話も聞きます。けれどここには「1人ひとつまで」という貼り紙すらない。ということに驚くこと自体自分がいかにルールと制限に飼い慣らされているかを実感しますが、次々と自由を奪うことが「しょうがない」とされる非常時において、ルールをひとつでもなくすことがどれだけ心理的な負担を減らすだろう、と思いました。
それはボランティアに対しても同じで、「自分が必要だと思うところで自分が必要だと思う行動をすること」、真の意味で自主性に任せたボランティア活動が歓迎されているような雰囲気がとても心地よかったです。

施設の目の前は七尾の漁港が広がり、夜の空は満天の星空。霜が溶け水となり、木々とアスファルトを蒸すあの匂い、石川県で散々嗅いだあの匂いがあって、やっと来れたんだ、とホッとしました。

▶︎交通手段について

小松市のニコニコレンタカーでレンタカーを借り、能登を回ります。金沢のレンタカー屋さんはかなり品薄でした。
SNSなどでは「能登道は大渋滞」という声もあれば「スカスカだった!」という声もあり、どっちやねん?と行く前は思っていましたが、行ってみて思うのは、「どちらも本当だ」ということ。出発日が三連休の中日の日曜日で渋滞を覚悟していましたが、小松→七尾市までは渋滞もなくかなりスムーズに移動でき、拍子抜けでした。しかし能登から金沢に向かう反対車線に目をやると、軽い渋滞が起きています。
13日(火)に七尾市から珠洲市に北上する際も249号線の穴水近辺は一部渋滞がありましたが、停止するほどではなく、15分程度の渋滞を抜ければ、あとの珠洲に向かう道はかなり車の数も少なく、心配になる程でした。
時間帯、道路によってかなりギャップが激しく、スカスカな場所もあれば、混み合う場所もある。てか道路ってそもそもそんなもんですよね。これが2月中旬の現状だと思います。この間渋滞していた箇所は、いずれものと里山海道閉鎖による迂回ルートになっていた場所でした。のと里山海道がより整備されればよりスムーズになるのではと思います。

▶︎どんな活動をしたか

- 11日(日)
午前☞移動
午後☞小牧集会場にて支援物資の品出し
- 12日(月•祝)
午前☞民家の納屋の片付け手伝い
午後☞小牧集会場にて支援物資の品出し
- 13日(火)
午前☞珠州市へ。避難所にて足湯活動
午後☞祖父母の家の片付け
- 14日(水)
午前☞能登町の小学校にて炊き出し手伝い
午後☞祖父母の家の片付け
- 15日(木)小松に戻る
本当にいろいろやらせていただいた。ここでは印象に残った活動をいくつか(以下、ですます調やめまーす)。

▶︎支援物資の品出し

さまざまな企業から寄せられた服や食料を見やすくとりやすく陳列しひたすら補充する。服のサイズは3LやLLばかりで「売れ残り・・・?」などとボランティア仲間と言っていたが、実際「大きめサイズが助かる」と持って帰られる人もたくさんいた。物資を持ち帰っていただいた方にアンケートをお願いする。温かいほうじ茶を出す。ある年配のボランティアの女性とご一緒する。遠方から来られたということだったが、まるで同じ地域に長く住んでいた顔馴染みかのように、訪れた方に自然に、フラットに、会話をなげかけていく。孫の話、甘いものの話、水が出ない今、どんなふうに生活の知恵を使って暮らしているか…。ごく普通の会話と日常の話題。訪れた方の顔も口調もどんどんほころんでいった。私はこの方の年齢になった時にこんな穏やかでストレートな”雑談”ができるようになっているのだろうか。
【参考】被災地NGO協働センターでは物資を募集しています

▶︎足湯活動

足湯は、もともと阪神淡路大震災当時から、被災地で行われているボランティア活動の一つ。足湯をしながら手をマッサージし、さまざまに会話する。私がやらせていただいたのは珠州市の避難所で、祖父母の家がある地域の近隣の地域だった。祖父は教員で校長もしていたし、(またこれはいずれ詳しく書きたいけれど)珠洲市にかつてあった原発立地計画の反対派が擁立した市長として市長選を戦ったので、地域では名の知れた人だった。
足湯の中の雑談で私が孫であることも早々に認知された。皆少し驚いて、深く頷いて、祖父母についての記憶をぽつぽつと語ってくれた。温かいエピソードばかりだった。
実は祖父母の孫として現地の人と関わることに少しの緊張があった。原発は住民を二分する。ずっと顔馴染みだった人でさえ、原発へのスタンスに違いがあれば交流は断たれることがある。反対派の市長であればなおさらだ。生前祖父母から聞くのは、原発を契機に疎遠になった人の話だった。けれどその分、戦いから15年以上経っても「あの人はあん時応援してくれたから」と、茹でたてのとうもろこしを持ってその人の家に走って行く祖母の姿も覚えている。あみの目のように重なり合い絡まりあった人間関係の中で、今、自分が孫としてここにどう存在しているのか。存在しうるのか。ここでは身を委ねることしかできない。でもそれで良いのだと思う。

▶︎家屋の片付け

土足のまま踏み入れた和室の床に、かつて床間に飾られていた小さな人形が畳の上に転がっていた。小さい時、その人形が少し怖かったことを思い出す。祖父母でさえ、なぜその人形をそこにわざわざ置いていたのか、もう意識すらしていないくらい当たり前にそこにあるものだっただろう。次の日にもう一度家に入ると、前もって作業してくれていた父がそれを「捨てるもの」の段ボールの中に移動していた。片付けるとは、そんな作業の積み重ねなのだ。当たり前だが、私はそれがひりひりと痛い。
でも、多分、放置しておくことのほうがもっと痛いのだ。一つ一つ捨てる箱の中に入れながら、時にはこれは捨てまいと守りながら、自分の体にこの家の記憶を溜め込もうとする。

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5日間、ボランティアとは一体何なのだろう、と考えていた。
災害ボランティアセンターができたのは1995年の阪神淡路大震災がきっかけなのだという。以前は災害ボランティアセンターなんてなく、それぞれ各地の団体や個人が被災地の支援に自力で参集した。冒頭に書いた管理と統制の傾向が強まったのは、センター設立以降だという声を聞く。功罪がある。
上が何を言おうと自分の意思と判断と責任で動く、そんな人が「勝手」だ「迷惑だ」とされる風潮は一気に高まってしまった。けれど実際に現地に足を運んで、これだけは確かだと思うのは、そんななりふり構わぬ人の存在が、今まさに命や暮らしを支えているということだ。

次は5月に現地に行こうと思います。


珠洲市の街中
のと里山海道工事中


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