「普通の人でいいのに!」から考える、「優しさ」と、愛おしき三文芝居ついて


いうまでもなく衝撃的だったこの作品に対して、流れてくる感想をちらちらと眺める。「趣味も合わない、話もすれ違う「ヒロくん」と一体どうしてみこは付き合えるの?」という”真っ当な”疑問や、「なぜ今の時代はヒロくん的な気の合わない男のような人としか出会いがないのか?」などの”良心的な”投げかけが目立つ。まあそりゃそうだなと納得する一方で、その度に違和感があった。
そのどれもが、程度の差はあれ、”「ヒロくん」という存在が彼女にとってネガティブなものである”ということが、前提にされているように見えたからだ。
それが、わからない。確かに、憧れの放送作家の伊藤さんに告白して、振られてしまったという意味では、みことヒロくんの関係の深まりには「失恋」が背景にあるわけだし、ヒロくんは、みこの「理想」とは裏腹な相手だといえるだろう。しかし、みこにとってヒロくんとの付き合いが、そんなにもネガティブなものに見えないのだ、どうしても。

*長いです。1万字を超えています。時々私の個人的な経験とこじらせが挿入されますが、それもほどほどに楽しんでお読みいただければと思います。

たとえばそれが、「理解」してくれる相手だったら?

33歳会社員のみこは、勤める会社を退職して後腐れがなくなるタイミングで、同じ社のヒロくんに食事に誘われる。仰々しいコース料理。共通の話題のない、深まりのないデート。ここで、二人のすれ違いの象徴とされるのが、”みこのサブカルトークについていけないヒロくん”、という構図なのであるが。

みこは、好きな映画を聞かれ「ノア・バームバック監督が好き」といい、帰り道、村上春樹の小説に出てくるという喫茶店「DUG」を指さし、「ペラペラ」とその店について解説する。そのどちらに対しても、ヒロくんは「わからない」「へえ」といった反応で、そこには、「ああ、いいよね、フランシス・ハみたよ!」という言葉も、「ああDUGね〜昔一回行ったかな」というような返しもない。一言でいえば「理解」されないのであるが、ここで考える。例えばこれが、伊藤さんのような「理解」されてしまう相手だったらどうだろうか?
ミニシアター系の映画の中ではそこそこ有名どころを真っ先にあげ、村上春樹の作品の題材になった店にあっけらかんと誘う、ということが、伊藤相手にできるのかと言われると、否、できぬ、と思ってしまう。なぜならそれは、”サブカルチャー好きの典型的な振る舞い”として、馬鹿にされてしまうのではないか、という恐怖が襲ってくるからだ。
これは私見であること承知のうえでの想像だが、サブカルチャーの界隈で村上春樹は時に地雷となりうる。犬も歩けば春樹嫌いに当たる、なんていうわけではないが、「昔はハマってたけどあれはね…」みたいな感じで、インスタントな批評とセットで突発的に春樹嫌いマウントを取られることのなんと多いことか。かつてハマっていた自分もセットで嫌悪しているのだろうか?もしくは、なんか知識人みたいな人が「春樹は実は…」ってな感じで馬鹿にして、その春樹批判かっこいいぜポーズが定式のように蔓延しているのだろうか。(IQ84を店頭から消えさせるミーハー感とか、ノーベル文学賞のたびに沸くメインストリームのメディアを嫌悪しているのかなあ)。
とにかく、サブカルチャーという「文脈」を理解していそうな人に対して「村上春樹が好きです」と無邪気に言うことは憚られ、相手の春樹に対するスタンスの読み合いになってしまうことはままある。「ま、実は結局村上春樹が好きなんすけどね」と、自虐的に言えただけでも上出来というか、勇者、と言いたくなる。
さらに想像だが、みこは、かつてマッチングアプリで出会ったサブカルチャー男と一緒に新宿を歩き、DUGの前でぐっと言葉を飲み込んだ時があったのではないか。「あ、ここでDUG行きたいとかいったらサブカル女っぽすぎて馬鹿にされるかな」といって、口を噛み締めた日があったのではないか(それこそ「変に通ぶっている人」にマウント取られたりして)。
さらにさらに想像だが、みこが初めてDUGに行ったのはおそらく大学で上京した時だろう。その時はまさに憧れの地として、1人、初めて足を踏み入れたはずだ(すいません、これは一人で上京して速攻で下北にいってローズコレーズ、city country city*曾我部恵一のやってるカフェにいった私の自己投影です)。
もはや自分の話になっているが、サブカルチャーにまがりなりにも自分の大事な部分を預けてきた人にとって、その「精神」が目の前に具現化して現れた時の衝撃ってのはものすごいのだ。これがあの下北かあ!ディスクユニオンかあ!みたいな感じで、浅い音楽知識で店内をうろうろしたことが、確かにあったのだ(私は全て深夜ラジオと邦ロックから入ったので…)。
で、その印象は色濃く残り、もう、怖いくらい残り続ける。
そしてさらに恐ろしく切ないことに、よっぽど強い文化的な積極性を持ち続けなければ、その衝撃を更新することはできないのだ。終盤にみこがキレて電話する「私は理想の場所にいられるように努力してきた」彼女なんかは、「DUGね、学生時代はよく言ったりしてたな〜あ〜はずかし」なんて感じで、すっかりDUGの衝撃を卒業し、せいぜい甘酸っぱい青春の一ページとして封印しているのではないだろうか?
文化的な積極性と、そこに自分を組み入れていく執念深さ。憧れたもの、それ自体に自分を組み込んでいくことは、「非日常」だった世界が「日常」になるということだ。そこにはある程度の「努力」が必要で、みこはそれを更新できない。おそらくみこにとって、「非日常」は「非日常」のままなんだろうと思う。

そんなみこにとっての「非日常」は、伊藤にとっては「日常」だ。だからこそ、憧れる。
しかし、伊藤はみこの趣味を「理解」してくれるかもしれないが、それは伊藤にとっては単なる「日常」であるため、彼にとっては、みこが反射的に惹かれるものそのどれもが不十分で、典型的で、ありきたりで、未熟なものに見えるのではないだろうか。”なのに”自分の発言をラジオ制作の参考にしてくれるところに、みこは伊藤に尊敬の念を抱くのであるだが。(ああ、私もむかし自分の数倍サブカルチャーな人と付き合っていたとき、「高円寺に行きたい」と言うためにどれだけ言い訳を重ねたか分からない)。

つまり、彼女は、彼女にとっての「非日常」、その一部として組み込まれている伊藤の前では常に、自身の”普通さ”(「日常」)をもって逆説的にしか存在を表すことができない。それは、「こんなにすごい人に認められた!」という達成感はあるとしても、常に試されているような危機感が根を張っているのではないだろうか。落ち着ける相手、とは言い難いのではないかと思う。

対して、文脈を共有しないヒロくんの前でみこは、常に文化的に強者であれる。なぜならヒロくんは、みこよりも、”普通の人”だから。その証拠か、彼女は躊躇なく好きな映画を開示し、躊躇なく新宿ゴールデン街に誘えるし(これもなかなか地雷ではないか?)、行きたい店にヒロくんを引っ張っていける。
私にはどうしても、そんなみこが、生き生きしているように見えるのだ。そりゃまあ不満というか、疑問というか、シニカルな視点が挟まれているから誤解しそうになるけれど、そこには一文字も、きもいとか、楽しくないとか、書いてない。ていうか、「話し合わなかったけどまあまあ面白かった」ということは日常のなかでままあって、その時に私たちの心のなかに挟まれる独り言って、意外とこんな感じなんじゃないっけ?

”否定しないが驚いてくれる”人への安心感

みこは、”相手が知らないことを自分が知っていること、相手が知らないことを話せている”ということが、楽しくないことはなさそうなのだ。わかるなあと思う。
この段階で「なんだ、そんなに文化的強者になりたいのか!」という人にはもうごめんなさいとしか言えないけれど、とにかく周囲と自分の差異を探すことに躍起になった時期を数ヶ月でも過ごした人にとっては、わからなくもない感覚なんじゃないか。

ただこの楽しさというのは、”相手よりもものを知っているから得意になれる”とか、”マウンティングとれて快感”とかいうわけでは決してなくて、(そういう時もあるけれど!!)”自分というものの輪郭がはっきりと見通せる心地よさ”、なのではないだろうか。

DUGの相席に驚かれ、ヒトカラをすると言えば戸惑われる。珍奇なことを嫌う「普通の人」の「普通の反応」は、「いいねー!」と乗ってくれる人が与えてくれる盛り上がりとは程遠いが、”普通ではない自分”を再確認するためには、かなりありがたい反応なのではないかと思う。こう書くと意地悪に聞こえるかし知れないけど、私自身が「差異化」を軸にして生きてしまった傾向があり、その時にもっともそれを支えてくれたのが、”否定はせずとも「え!?」としっかり驚いてくれた人”の存在なのである。「そういうもんだよね」と他愛もなく反応されたら自分が「これは!」と思っているもの(自分の中でも”普通じゃない!”と思って興奮しているもの)に対する自分の感覚は勘違いなのかな?不安になるし、かといって「変なの」「おかしいよ」と言われたら、シャットダウン。ちょっと傷ついてしまう。最も不幸なのは、「私の方がもっと変だよ」という無限の応酬だが。
一番ほどよい反応が、”否定はしないが驚いてくれる”なのではないか。もっとも適切な、自分の感覚の尊重。それを、ヒロくんは確かに与えてくれているように見えるのだ。

とはいえ、集団の中で「差異」で居続けることはつらい。
私は大学一年の時に入ったサークルの部誌の自己紹介ページに、「あーそれ私も好きだよ!」と言われることを夢見て自分がこれまで携えたサブカル情報を全開示したものの、全員にスルーされたことがあった(その半年後部活をやめた)。しかしだからといって同じ音楽の趣味の人がいそうな軽音サークルには入らなかったのが自分のいや〜なところだ。そこに入っていたら楽だったとは思えない。その強烈な個性に自分が霞んでしまうことに怯えるか、細かな差異にしがみついて息苦しくなっていただろう。

もしかしたら、2人だけの親密な関係の中で絶えず優しく差異化され、なおかつそれ以外の集団の中では適当に霞んだり、ふわっと順応したりするのが結構楽なのではないだろうか?ということを思わされたのが、ヒロくんとみこが付き合い始めてからの展開だ。
二人が付き合い始めたことを示すシーン、その初っ端から彼女は既に、自身が好むお笑いコンビ「病気の犬」をヒロくんに布教(まあ、成功してないと思うけど…)していることがわかる。
「あのお笑いの「病気の犬」調べてたの?」というヒロくんにはつい、「いつも調べているわけないではないだろむしろそれはベーシックに好きなものであってそれ以外にも追っかけているものはあるのだよ」と突っ込みたくなるが、しかたない。彼には、彼女の好きなものに対する手がかりが少なすぎるのだ。「病気の犬」好きならこれとかも好きかな?という文脈の広がりもわからないのだから。
また、ここで「病気の犬」という彼女の趣味のワードをわざわざ取り上げて話しかけてくるところにも、否定はしないが、かといって一緒に没頭もしない、でもみこの趣味を”肯定する彼氏”であろうとするヒロくんのスタンスが示されているとはいえないか。
ヒロくんにはなにもない。だからみこは、自分がみたい映画をデートに選んだり、カルチャー的に主導権を握れているのだ。知的な向上心を刺激しないかもしれないが、「それよりもこちらを見よう、こちらの方が良いよ」というような競争的な主張もない点で、ヒロくんはみこの「現在」を肯定してくれる。
くどいようだが、例えば伊藤さんと付き合ってみよう。
みこは「これ見たいっていったら、伊藤さん「そんなありきたりな」と思ってがっかりするかな」と遠慮して、提案すら出来ないのではないか。伊藤さんと付き合うのは大変だろうな、”よりよく”ならなければならないのだから。ほぼ全ての時間をオフィスワークに捧げざるをえないみこにとって、つねに伊藤さんにとって刺激的な存在であろうとすることは、なかなかハードなことなのかもしれない(こういう踏み絵はいくらでもある。就活の時に、”自分の好きなもの”は休日に回して、食うための仕事をしよう、と決意する時など)。
ウラジオストクに乗り気になるひとでないからこそ、ウラジオストクに行こう、と生き生き提案できる。重要なのは、一緒にウラジオストクに来てくれるかどうかではなく、みこ自身が、生き生きとウラジオストクの話をできることで、みこが自分自身の輪郭を確かに掴めるかどうかなのではないか。

ま 村上春樹の主人公みたいな彼だったらこんな俗っぽい愚痴もはけないか。普通の彼だから築ける自然体な関係だよね

この言葉を、皮肉と取るか、率直な想いと取るか。私はここにどうしても切実さを感じてしまうのだ。文化的に有意に立って、文化的な主導権を握れているという余裕が、みこにのびのびふるまうことを可能にしているのではないか、と。

作り物の「優しさ」を破壊する

ただし、このみこがヒロくんに対して立つ文化的な優位性というものは、決して”みこのサブカル知識の豊富さ”、によって端的に成り立っているわけではない。ここを描いているところが、この漫画の残酷なところであり、特筆すべきところだと思う。

作品中で頻出するのが、ヒロくんに対する「優しい」という形容詞である。これは、なにを意味しているのだろうか。
象徴的なのが、ヒロくんにタイプを聞かれたみこが、「ホモソーシャルどっぷりじゃない人がタイプですかね」と述べるシーンである。
彼女は「男社会で優位に立てると思っている」人が嫌いだという感覚をもっている。だが、これは、初めて食事した相手に、こんなにもふらっと言えるワードなのだろうか?これを「言える」と判断したのは、ヒロくんが、「女の子をくどくためには男が高い店に招待すべき」という非対称なジェンダー規範を内面化しているが、それを「優しさ」だと信じて疑わない人だからではないか。つまり、「女の子には○○してあげよう」というジェンダー規範が、「差別」(「蔑視」)と、「優しさ」の合いの子であるのに、ヒロくんにとってはその後者しか見えていない。差別意識の反映でもある行為を「優しさ」と信じて疑うことなく遂行できる彼は、「ホモソが嫌い」という発言に対して「え?男はそういう会話するもんでしょ」とか、「女子だって女子会で愚痴りまくりでしょ?」などの言い返しを決してしてこない。まあ当然その意味すらもわからないヒロくんにとっては、上記の返しは不可能なのであるが、それをしてこない差別意識と表裏一体の「優しさ」をヒロくんが強く盲信していることがその細部の振る舞いから伝わるからこそ、みこは堂々と安心して彼に「ホモソーシャルとは何か」を説明できるのではないか。

つまりみこはヒロくんの「差別意識」を裏面に携えた「優しさ」に依存しているともいえるかもしれない。だが、これは果たして、みこにとっての許すべからざる矛盾なのだろうか?ここが、私にとっての最大の関心であるのだが。
確かにヒロくんは、みこを見下して、「演じてあげてる」とも言えるかもしれない。”女の子の趣味を理解してあげる優しい彼氏”、を。演じているというと真っ先にネガティブなものとして把握したくなるが、多かれ少なかれ皆、そういった演技を身に付けながら、日々と折り合いをつけているのではないか。

対して、演じない剥き出しな人。例えばそれは、バーで出会う「悪い男」、宮森であろう。取り巻きを笑い、「経理?っぽいわー」と笑う彼は、正直な人なのだろう。「ファンになりマイナーな若手芸人を追っかけてる人」「経理の仕事しつつ日常の息継ぎとしてサードプレイスにハマっている人」。おそらくその誰もが、”没入している自分”に対する恥を含んだ客観的な視点をもっている。宮森はそれを見出して、蚊帳の外からその「没入」を笑う。まさにそんな宮森の視点は、みこ自身が自分自身に対して持っていいた恥の感情と同種であり、だからこそ、宮森はみこの没入を脅かしてくる、「優しくない」存在なのである。正直で対等に扱ってくれる人、と言えるのかもしれないが、そんな相手に常に試されるような感じで一緒にいたくない。ならば、たとえそこに蔑視が含まれていても、演技し続けてくれる「優しい」人の方がいい、と思ってしまうのは、中途半端な態度なのだろうか?私はとても彼女を批判できない。

しかしもちろん、化けの皮ははがれる。みこの、ではない。ヒロくんのだ。

クライマックスでみこを激怒させるのは、「病気の犬」ステッカーを自慢するみこにヒロくんが行う「イイ趣味じゃん」という言葉と、頭ポンポンだが、この意味は、”「趣味」と言われ馬鹿にされ、作り物の自分に気づかされたことにみこが怒った”というところだけに求められるものではない。
なぜなら、”彼女の「趣味」を理解してあげる彼”、を演じるヒロくんの演技の綻びを、その数時間前にみこが見出していた。
デート中、旅行先について話し合いながら、ウラジオストク行きを却下されたみこが矢継ぎ早に繰り出す「ライブいかない?」の誘いに対して、ヒロくんはそれを「ブフッ タイ…バン?」と笑う。
このときみこはなにも言わずに黙っているが、まさにここは、彼女が薄々感じていたであろうヒロくんの反応が「優しさ」を纏った「演技」であったことを見せつけられた瞬間なのではないか。「趣味」を理解するポーズを取りながら、実は内心馬鹿にしていた彼。それが、剥き出しになったからだ。
繰り返すが、彼は、彼女の趣味を馬鹿にしない。それが彼にとっての”優しい彼氏”だからだ。しかしその演技の裏で抱えもっていた、「なんで30も超えてお笑い芸人の追っかけしてんだ?」とか、「ライブって学生かよ」というような馬鹿にする感覚は、「優しさ」では押さえきれず、「笑い」となって溢れる。その時にみこが「なんで笑うの!」と怒ることをしなかったのは、嘲笑を押さえ込まれたうえでなされる「優しさ」に、みこ自身が依存していたことを、彼女に気づかせたからではないか。

しかし、そのことに気づいた時、みこにとっての「演技」の破壊が始まる。
ヒロくんを置いてライブに来たみこが、キラキラとした友人二人の「田中さんの彼も今度お店に連れてきてください」「会ってみた〜い」「期待しないで普通だから」「え〜優しいって聞いてますよ」のやりとりの末に、「じゃあ交換する?」と言い放つ。
キラキラした友人の「え〜優しいって聞いてますよ」「素敵じゃないですかあ」という言葉の「優しさ」。パッとしない普通の彼氏を持つみこを肯定してあげるという、「優しさ」の作り物感をみこは、「じゃあ交換する?」の一言で剥き出しにしてしまうのである。

異論はあると思うが思い切って言ってしまうと、サブカルチャーになれしたしんできた「女性」は少なからず”女らしく生きたくない”という感情を抱えもった経験があるのではないだろうか
人によって程度の差はあれ、普通とされる生き方や振る舞いに順応できない、順応したくないという反発心が、人を、”普通ではない”と思える文化の方向へ駆り立てることがある。
その一つが”女らしい”振る舞いなのではないか。それを身に付けたくない、逃げたい、と思ったとき、”普通ではない”文化を共有し、それを愛でている人々の群れは、唯一普通が息苦しい自分を受け入れてくれるオアシスに見えてしまうことがあるのだ。こんなにも”普通ではない”ことを肯定し認めようとしている人々なら、”女らしさ”という”普通さ”を身に付けたくない自分を受け入れてくれるのではないか?と。
(高校時代、クラスのある男子が銀杏BOYZとandymoriが好きだと判明した際に、私は一瞬で彼を好きになったのだが、その理由は、「同じ趣味だから」という端的なもの以上に、なぜか、「彼は私を女扱いしてこないだろう」という、根拠のない見立てに依っていたのだ。ほぼ話したことないのに!でも多分そうだったと思うよ…涙目)。

しかしそちらもそちらでなかなかのサバンナで、その世界なかで単に「消費」するだけでなく、自分を武器に「生産」することで頭角を現したり、サブカル的振る舞いそれ自体をも相対化できるほどの探究心や知識や好奇心、すなわち「努力」がなくては、あっさりと埋もれてしまうのだ。
伊藤とリサが付き合い結婚したということはまさに象徴的で、リサはその世界の中で服飾という仕事によって「生産」していた。みこにとっての「非日常」を二人は「日常」として共有できる強者性をもっていたのだ。
(これもまた想像だが)みこは、数年前に一度だけ食事したものすごいサブカルの知識を持つ男性に対して萎縮した自分、彼に知識をひけらかされ、それに対抗して認めてもらうこともできず、「見下されている」「マウントされている」と感じたり、それでいて「余裕からくる自虐」をさらりと繰り出せる伊藤とも肩を並べられない自分ーーを自覚していた。”女らしさ”を求めてこなそうな男性との付き合いを手に入れるにしても実力主義がある、ということを、みこは暗に感じるからこそ、”普通の人”--自分を女として扱ってこようとする人ーーと折り合いをつけるしかない、と思い切った。
サブカルにおいても「女でいなくてもよくなる」ための実力主義があることを感じ取ったからこそ、みこは、せめて馬鹿にしない、マウントしない、「優しい」ヒロくんとの付き合いを選んだとも言える。

しかしみこはキレる。ヒロくんを押し出すのだ。ネットの意見をみていると、この物語の作り手が、みこのようなサブカルチャーに憧れる女子を馬鹿にしてるという批評もあるようだが、私は全くそう感じないのは、まさにここでみこをキレさせているからだ。

女扱いされる、という、ある種の彼女にとってもっとも屈辱的な扱いを受けながら、そこから「優しさ」という恩恵を享受することで、なんとか自分を納得させていたみこ。しかし、それでもどうしても、その屈辱に耐え切ることができない。折り合いをつけることはどれだけ難しいことか。それを、その作者は、ちゃんと描いてくれているのだ。彼女のキレは、「普通の人でいいのに!」と自分に言い聞かせながらも、”普通の人”によって女」でいさせられ続けることが耐えられないという体の底からの抵抗が剥き出しになったシーンなのではないか。ヒロくんを押し出すみこは、自分にもキレている。折り合いをつけようとしたけど、つけきれなかった自分にも、キレている。

永遠に演技し続ける、でもせめて舞台監督くらいは?

そしてみこは、内心バカにしながらも隠してヒロくんのことを褒めてきた女友達にもキレ、一人ウラジオストクに飛び出す。

このラストを、救いと見るか、どん詰まりと見るか。「気がつくとウラジオストクにいた」という自分の行動力すらもずっと「やってみたかった」こととして対象化し、「死にたい……」と泣く自分に「今めちゃくちゃ棒読みだったな」と自分の「演技」に気づいてしまう彼女は、どこまでも「演技」であることに気付き続けながら、それでもなお演じ続けることを選べてしまう悲しい「強さ」をもってしまっているのではないかと思わされもする。帰国したみこは、ヒロくんとまた噛み合わない会話をして、なんだかんだ復縁し、女に対する蔑視も含んだ「優しさ」によって馬鹿にされたり肯定されたりしながら、だらだらと生活を続けてしまうこともありうるだろう。

それも悪くないのだが、しかし、もう1つの未来を想像できる。帰国後、着信の入った携帯からヒロくんに折り返し、「いや、もう私はあなたが嫌いだから」と言い放ち、静かに携帯を耳から離す、フローリングに置く、そうして布団に突っ伏する…という様を、「今それっぽかったな」と笑いながら、遂行してしまうという未来はありえないだろうか?

つまり、自分に対するどこまでも皮肉的で客観的な視点をむしろ武器にして、やりたいようにやってしまう自分を笑いながらやりたいようにやってしまう、そんなみこの姿を想像してしまうのだ。

それにむしろリアリティを感じてしまうのは、案外私たちが、”っぽさ”という無根拠な代物を頼りに大胆な行為をなしてしまいかねないということに、薄々気づいているからかもしれない。そして物語や作品は時に、その背中を押す原液になることがある。たとえ不純な動機だと言われても、それを頼りにせずには行動できないことがあるのだ。

だから、想像してしまう。「「普通の人でいいのに!」っぽいなあ」なんて思いながら、その人の呼吸の一部になっている演技を鮮やかに破壊しちゃって、自分がやりたいことを殺すことをやめてみちゃう人の出現を。この世界に、一人くらい、いるんじゃないかな。それは、何かのコピーのさらに何かのコピーでしかない、”っぽい”ただの三文芝居なんだけど、そんな自分の演技を”っぽい”なあなんてシニカルに客観視し続けながら、結果的にやりたいようにやっちゃうのはなかなかすてきだ。その時少なくとも舞台監督は自分だろうし、誰かの求める演技指導に合わせて慎重に生きるよりよっぽど面白そうだ、と思う。

吉祥寺でも下北でも高円寺でも上演できないつまんない小さな小さな演技と演劇が、この世界で無限増殖的に執り行われている。この漫画を読んで私は、その事実を愛おしく思わずにはいられない。そして多分、私もその当事者の一人として勇気づけられているのだ。





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