[短編小説] 単刀直入な歪

 わたしは、歪だ。

 歪だと気がついたのは、いつだったかよく覚えていない。生まれた時から歪んでいたのかもしれない。
 だが確かな記憶がある。幼稚園のころ、女の子の定番の遊び、ごっこ遊び。
 おままごと、ケーキ屋さんごっこ、花屋さんごっこ。
 お母さんの役をするのも、パティシエールになりきるのも、雑草の束をブーケに見立てるのも割と気に入っていたけれど、わたしが何よりも好きだったのはお医者さんごっこだった。
 聴診器に見立てた積み木を、同級生にあてるのはそんなに面白くない。楽しかったのは注射の真似事だった。
 マジックペンを「いたいですよ」と言いながら、のんちゃんやゆーくんの腕に押し付けると「いたいよぉ」と泣き真似をする。えーんえーんとわざとらしく泣く彼らの姿を見ると、足と足の間がキュッと収縮するのだった。
 おしっこを我慢するときと似ているけれど、少し違う。ちょっぴり気持ちが良くて、頭がふわふわする感覚。
 みんなのテンションが上がって手術ごっこをするときなどは、最高だった。いたいよ、やだよ、こわいよ、とわざとらしく言いながら、ゆり組の床に寝転がる同級生の姿を見たときなど、足の付け根がブルブルと震えたものだ。

 それらの身体的反応が、性的快感に準じるものだと知ったのは、十年ばかり後のことだった。
 小学生の頃には、周りと同調することがすっかり苦手になっていたわたしの居場所は、図書館にあった。図書館が開いている昼休みは図書室に、短い五分休みの間は本の中の世界がわたしの世界の全てだった。
中学になってからも、性格は変わらず、相変わらず図書室に入り浸っていた。中学校の図書室は、教室がある場所から少し離れたところにあってとても静かで、天国だった。五十代の司書の先生も生徒と関わろうとしない人だったから楽だった。言うまでもなく部活には入らず、義母との関係性が悪くイライラしている母がいる自宅から逃れるように、学校が閉まる夕方六時まで、毎日図書室に入り浸っていた。
休みの日は、市立図書館に開館から閉館までいた。

 小説も好きだったし、ノンフィクションものはもっと好きだった。
 偉人シリーズは、端から端までかたっぱしから読んだ。殊勝な子供だと周りからは見られていたが、その実、わたしにとってそれらの本は官能小説の類であった。
 読書の目的は、学ぶことではなくて快感を得ることにあった。
 文字を追っていくと、登場人物に身体移入する。感情移入ではない、とわたしは思っている。身体の感覚が、描かれている人物のそれと一体化していく。喜びで高鳴る胸も、大声で叫んで痛む喉も、わたしの体は再現する。
 けがをする場面や、死に関わるシーンを繰り返し読んだ。
 言葉も話せないほどに幼い頃にひどい火傷を負った野口英世。才能に悩み苦しみ、自らの耳を切り落としたフィンセント・ファン・ゴッホ。華々しい生涯をギロチンで分断されたマリー・アントワネット。
 痛々しいけがの詳細や、彼らの葛藤が描かれるたびにわたしは涙した。なんてかわいそうなんだろう。どれだけ怖かっただろう、どんなに痛かったろう。苦しんで、辛くて、大変だっただろう。
 涙すると同時に、わたしの脈は早くなっていった。
 痛みが苛烈であるほど、わたしは興奮していた。分離する二つの感情がそこにあった。分離していても一つである感情だ。

 かわいそう、という気持ち。
 そして、性的興奮。
 身体移入をしているわたしの体は、痛みを模倣しようとする。左手がひどく熱を持ったり、左耳の奥がツンと痛んだり、首が締め付けられて気道が狭くなったりする。
 模倣は模倣でしかない。本物はもっとすごいのだろう、と想像して、ああなんて気の毒だ、と思いながら、下半身が高ぶるのだ。

 異常だ。

 誰かが苦しみ、悶える状況に興奮する。サディズムともマゾヒズムとも言い難い。どちらでもあって、どちらでもない。
 ははは、苦しんでやがるぜ、とは思えない。どうしてこんなかわいそうな目に、としか感じられない。
 自分が痛めつけられたいとも思わない。ささくれができてしまっただけでも、痛い、いやだと泣きわめきたくなる。ましてや、誰かに叩かれたりけがをさせられたりしたいなんて、思うわけがない。
 サドでもない。マゾでもない。

 定義不明な、性的異常者。

 おじさんにも、少女にも同様の昂りを感じる。バイセクシャルとも言い難い。節操なし、が一番しっくりくる。
 相手がおばあちゃんでも、赤ちゃんでも関係なく、興奮してしまう。ロリコン、ショタコン、ペドフィリア、ジジ専、熟女好き、そんなカテゴリともまた違う。
 インターネットの海を泳いでみても、わたしと同じ人は見つからない。性的マイノリティ、にもカテゴライズされることのない、異常性癖。
 マイノリティ、は日本語にすると「少数派」。「派」なのだ。何人か集まるから、「派」になる。一人しかいなければ、ただの外れ値。時代が違えば、魔女や狐憑き。

 異常だ。歪んでいる。

 でも、それは誰にも気づかれない。客観的に見れば、ただ本を読んでいる女子生徒。まさか、「世界・日本の偉人百選」や「世界名作集」、「ノンフィクション:凶悪事件の真相を追う」を読んでムラムラしているだなんて、誰も想像だにしないだろう。
 まだ、辞書でエロい言葉を引いてニヤニヤしている方が子供らしくていいかもしれない。

 わたしの歪は、少しずつ形を変えた。お医者さんごっこから、活字になり、大学生の今は動画サイトがわたしの歪を支えている。
 妄想、文字データ、映像へと変容した。だんだんと刺激の強いものを求めるようになったのだろうと自己分析をしている。
 苦痛に顔を歪ませている人の顔を見ることで、わたしは性的興奮を覚えるのだと、様々なことを試した末にはっきりとわかった。逆に言えば、それ以外だとさして興奮しないのだ。
 さらに面倒くさいことに性癖は一層細分化していった。苦痛に喘ぐ人であれば誰でもいいわけではない。
 マゾヒストの動画はつまらない。苦痛によって彼らが快楽を受けていると知っているから、縛られたり叩かれたりしているのを見ても、へえ、そうなの、としか思えない。
 事件や戦争の被害者を見るのは忍びない。快感にたどり着く前に、痛ましさで胸が潰れる。
 最適解が医療系のノンフィクション。医療ドラマなんかの「作られた」映像ではなくて、本人や家族が投稿しているものや、救命センターなんかのドキュメンタリが良い。苦痛が本人の生命維持や健康にとって必要であるけれども、本人は決して好き好んで辛い治療や処置を受け入れているわけではない、という点が良かった。

 受け入れなければならない、痛み。
 耐えるしかない、苦しみ。

 わたしはなぜだがそういうものに、痛みの宿命とでもいうものに惹かれてしまっていた。
 わたしみたいな目的で見ている人はいないのだろう。啓発や教育目的で作成された動画たちを見るたびに、わたしは罪悪感に苛まれる。
 ごめんなさい。でも、わたしはこういうものでしか、興奮できないのです。
 注射されて泣きわめく女の子、歯医者に抵抗する男の子、治療を受けて喚くおじさん、痛みに涙をこぼすおばあさん。
 再生回数が3桁しかないこの動画たちを、性的な目線で見ているのはきっとわたしだけ。
 ダメなのだ。いろんなことを試してみた。女性もののアダルトビデオ、小説、漫画、ボーイズラブのあれこれ。全て試してみたけれど、エロいなあ、とは思うけれど、興奮までには至らない。発情までは進んでも、オーガズムに到達しない。
 心の中で謝りながら、今日も動画サイトを漁る。更新ボタンを押して、部屋で一人、あっと声を上げる。
 自身の闘病生活を動画にして上げている女性が、新たな動画を投稿していたのだ。深呼吸してから、再生ボタンを押す。
 最後まで再生して、息が止まった。
 彼女は、もう動画を投稿しない、と宣言していた。次いで、その理由についても説明していた。
 自分の動画が、無断で転載されていたこと。転載をしていたのは医療的な行為に対して性的興奮を覚える人物が運営していたSNSのアカウントであったこと。
 アップロードした動画が「そういった」用途で利用されていることと、性的な視点を持って見つめられていたことに、彼女は凄まじい嫌悪と怒りを抱いていた。結果として、その人物に対してありとあらゆる罵詈雑言を持ってなじることとなった。
 頭がおかしい、人として間違っている、気持ちが悪い、生きていて欲しくない。
 コメント欄は、擁護のコメントで満ちていた。そのコメントは彼女にとっては盾になるのだろうけど、わたしにとっては矢となって飛んできた。
 『そんな性癖を持っている人間に、生きる価値はないと思います』『頭おかしい人もいるんですね、気色悪い』『地獄に落ちればいいのに』
 わたしは、その言葉がわたしに向けられていると感じた。同じように、興奮してしまっていたのだから。
 なんだかとても悲しくて、涙がぼたぼたと溢れた。

 やはりわたしはこの世に受け入れられない存在なのだ。許されない人間なのだ。一生懸命に、けがや病気と戦う人をやましい視線で持って眺めるなんて、認められるわけではない。
 それくらい、わかっている。
 自分でも頭がおかしいと、理解している。矯正しようとしたができなかった。一生日陰者で、誰にもこのことを告げずに死ぬ覚悟をしている。
 コメントを残すことも、当事者と会うこともせずに、ただ黙って動画を日々再生しているだけなのだ。
 それでもダメだろうか。
 倫理的に問題があることくらい、痛いほどわかっている。だからと言って、生きる価値がない、と言われなければならないことなのだろうか。
 きっと誰にも理解されない、生理的に無理だと思われることの方が多いはずだ。

 マイノリティに手が差し伸べられるのは、彼らが少数「派」となって、尚且つ世間から倫理的に認められたときだけだ。
 おかしな性癖を抱えて、おかしいと後ろから石を投げられて、でもどうすることもできないまま、自分を責め続けながらわたしは死んでいくんだろう。
 誰にも相談なんてできない。
 歪だということがより一層はっきりして、過去の出来事が理由だろうと適当に原因を見つけられて、異常者の刻印がさらに強く押されるだけだ。

 ダンゴムシのように、湿った石の影に隠れて死んでいくから、頼むから裏返さないでほしい。石を裏返して、気持ちが悪い、と地面に叩きつけないで。


 歪なわたしは歪なままで生きるから。
 


 見つけないで。

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