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日本史16 悲運すぎて、パニックになった天皇・聖武さん

ちょっと雑談いいですか。

ステゴサウルスっているじゃないですか。
恐竜の。
ステゴサウルスの脳ミソってたこ焼きサイズらしいですよ。

なんで例えるものが、大阪名物やねん!

元明天皇、元正天皇という2人の「中継ぎ」を挟んで、いよいよ満を持して聖武天皇が天皇の座につきます。

さすが聖武天皇、初っ端からかましてきます。
権力闘争が勃発するんです。

長屋王がブイブイいわせてたんですが、藤原不比等の子どもが長屋王をぶっ倒そうとしてきます。
藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟です。
四男の麻呂は、絶対、手を抜かれたよね。名前つけるとき。
不比等、手、抜いたよね。
おるもん、武智麻呂が。
誰も不比等に言わなかったのかね。
「四男、麻呂?!もう長男に武智麻呂っているけど?!」って。

この四兄弟、いわゆる「藤原四子」が長屋王から政権を奪い返すために、めっちゃ考えます。
四兄弟で相談の毎日です。
四男の麻呂も、ちゃんと話に入れてもらえたと思います。

「麻呂、お前もこっちこいよ!」


長屋王は、左大臣っていう、ほぼ内閣総理大臣レベルといっていい位になってたんですけど、
この四兄弟、長屋王の悪い噂を流します。
この噂のせいで、長屋王、自殺にしちゃいます。
これを長屋王の変っていうんですけど、
四兄弟のやり方、ずいぶん陰湿ですよね。
権力争いって、結局こんな感じなんですかね。
拳で語り合うとかはないんですかね。
暴力はいけませんが。

「長屋王の悪評を広める、でいいね?」


その後、藤原四子は、聖武天皇に嫁いでいた妹の光明子を、妻の中で一番トップである皇后にして、実権を握ることに成功しました。
妻の中でトップってのは、この時、天皇の妻は一人だけじゃなくて複数いる場合もあったから、その中でのトップが皇后。

実は、それまでは皇族の女性が天皇の妻のトップになるっていう伝統があったんだけど、皇族以外がはじめて天皇の妻のトップになるっていう先例をつくったんです。

順調に、自分たちのところに権力を集中していった四兄弟なんですが、全国的に天然痘という疫病が広がってしまい、藤原四子は全員相次いで病死してしまいます。
これも、長屋王の怨念です。
祟りです。
僕は、これを長屋王の祟りということにします。
偶然にも、この時代の人たちも、これを「長屋王の祟り」と噂しました。

そんで、その後に、権力を握ったのが、橘諸兄という人です。
はい、絶対、初見じゃ読めないね。
「たちばなのもろえ」っていうんですけど、読めないね。
一応、皇族出身です。
私と一緒ですね。

橘諸兄は遣唐使として、中国に留学してた吉備真備と僧の玄昉の補佐をうけ政治を行いました。
こんな、読みにくい名前のヤツを補佐できんのなんて、留学してたような、頭のいいヤツぐらいだよね。

「諸兄さん、なんでも言ってください」

そして、まだまだ、藤原の連中はしつこいです。
四兄弟の三男坊、藤原宇合の子ども、藤原広嗣が、橘諸兄の悪口を言ったり、吉備真備や玄昉を政治の担当から外すよう、聖武天皇に訴え、大規模な反乱を起こします。
ホントにしつこいんです。
結局この反乱は失敗して、藤原氏の勢力は少し衰えるんですけど、
これ、聖武天皇が天皇になって、約15年の間におきてます。
最高権力者が自殺し、世の中に病気が流行り、政権担当だった4兄弟がその病気で相次いで亡くなり、さらに大規模な反乱まで起きる。
聖武天皇、もう泣きっ面を蜂に刺されて、その上、財布落とすぐらい、不運ですよね。
しかも実は、さらに飢饉も発生し、社会が大きく動揺してました。
落とした財布に入っていたクレジットカードで限界までキャッシングされたぐらい、聖武天皇ツイてないです。

「え?俺、なんでこんなツイてないの?」


自分が天皇になってから、なんもイイコトがないと思った聖武天皇は、もう自暴自棄になってます。
きっと冷静な判断力もなくなってたんでしょう。
都を平城京から山背国の恭仁京、摂津の難波京、近江の紫香楽宮と頻繁に移します。
そんな聖武天皇を見て、僕は慰めの言葉を贈ってやりました。
「悪あがきはよせ」と。

案の定、世の中の動揺は収まらず、結局、都は平城京に戻されました。

こんな状況ですから、聖武天皇は世の中の安定を仏教の力によってもたらそうと考えました。
つまり、未だパニック状態です。

ちなみに「仏教の力で国を安定させよう」という考え方を、鎮護国家思想といいます。

聖武天皇は
「デッカい大仏がほしいな~」と思いました。
デカい大仏があれば、国が安定すると考えたわけです。
こういう発想のヤツを、世間は天才って呼びます。

というわけで、巨大な廬舎那仏の造立を命じて、東大寺の本尊としてつくられることになります。

「よくデカいって言われます。どうも大仏です」

そして、長年の課題だった土地不足と税収不足を、聖武天皇は墾田永年私財法を制定することで解決しようとします。

墾田永年私財法ってのは、一定の範囲内なら、自分で開墾した土地を自分のものにでき、土地を国におさめることはしなくていいっていう法令です。
これで、民衆は収入を増やすことができるんですね。
収穫の一部は納税しますが、残りは取り分になるわけです。

でも、この法令、残念なことに「貧富の差」を生んでしまいました。
実際、土地を開墾するって結構大変で、かなり余裕のある人しかできません。
つまり裕福な層なんですよ。

これ、今に置き換えると、起業とかビジネスとかになりますかね。
日々の仕事に追われてる人が、副業でビジネスやるって結構しんどいですよね。

結果的に、貴族や豪族などの豊かな階層が、人を雇って開墾し、多くの土地を自分のものにすることができました。

そして、土地を捨てて逃げだしてきた農民を雇って耕作させて、さらにその土地を農民に貸して収穫をおさめさせるというビジネスをやって、ますます豊かになっていきます。
こんなの、今の社会も同じですよね。
お金があるところにお金が集まるという。

ちなみに、今までは土地って国のものだったんですけど、このように自分で開墾して私有地になった土地を「荘園」といったりします。

「余裕がある者は副収入を得てますます豊かになり、余裕がない者は土地を手放し、雇われた人になって貧困に苦しむ」という構図は、資本主義という言葉が生まれるずっと前、もうこの頃からあったんですね。

ってことは、もしかしてこれが社会の摂理なのかもしれない、というちょっと怖い話でした。

(´_ゝ`)

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