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熱を求めて

物心ついたときから私の生活の中にはサッカーがあった。

小学校5年生のとき、人生初めての骨折を経験。所属しているクラブチーム、男子/女子両方の選抜チーム、社会人女子チームに、時々、父が所属していた社会人チームの練習にも参加。1週間の中でオフなんてないし、1日に2チームをハシゴする日もあった。

そんなある日の練習中、チームメイトと交錯した右足首に経験したことのない痛みが走った。「今日はもうやめておきなさい」ケガの様子を確認したコーチの言葉ではじめて泣いた。痛みより、サッカーができないことへの涙だった。

それだけ聞くと、よほどのサッカー好きという印象を受けると思うが、

「サッカーが好き」

私の中ではこの言葉がずっと違和感として引っかかり続けてきた。

特に地元、広島を離れてからは、「自分は本当にサッカーが好きなのか」と、自信を持てないことが増えた。高校での3年間を終える頃には、「そのまま国内に残ればサッカーを辞めてしまうだろう」という確信にも近い恐怖感を抱いた。

その一方で、トレーニングでは誰よりも心をときめかせ、試合前後では気持ちが昂りすぎて眠れない一面もある。一体どの自分が本当の自分なのか、サッカーが好きなはずなのに。頭の中でぐるぐる回って、練習に向かう駅のホームで足が動かなくなった日もあった。

それでもしぶとくボールを蹴り続けているのは、ピッチ上でこそ、ピッチ上だから、飾らない自然のままの自分でいられることを、なんだかんだ言いながらも自覚していたからであろう。

思い返せば小学生の頃。バカとしか言いようがないくらいにサッカーに没頭しながらも、トレセンの厳しいコーチが苦手で電車で寝過ごしたこともあれば、「夢はプロサッカー選手」と公言しながら、そう言いつつ、「一般人になっていく多くの人のうちの一人になるだろう」という冷めた考えも持っていた。

だから、サッカーをやめることで祖母や父を落胆させたくないとか、そんな気持ちだけでやっていたんじゃないかと思っていたが、実はそうじゃなくて。とかく考えすぎることなくありのままの自分でいられること、当たり前のように上を目指せる空気。幼いながらも、そういうところに惹かれていたのだと、今なら思える。

そう思えてくると、今までもやもやしていたものが晴れて、目の前がさーっと開けていくような。奥のまた奥底で信じ切ることができていなかった自分を信じてみようと思える、そんな気持ちになった。

ここまで書いてみて、ごちゃごちゃ考えすぎとはよく言われるし、自分でもめんどくさい性格をしているなと改めて感じる。だけど、ジェットコースターのようなアスリートのキャリアを乗り越えるために、何よりピッチで自分を表現し、一人でも多くの人に共感してもらうために、少なくとも、私にとっては必要なプロセスだと受け入れることにした。

こうなってしまえば、スーパーマリオのスター状態のような気持ちでさえあるが、これがどう転ぶかはやってみなければわからない。それでも、挑戦を足止めするもやもやは軽くなったはずだから。自分を表現することを恐れず、そのために必要なことを考えながら挑戦していきたい。肌がひりつくような熱を求めて。

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