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オンライン写真展『紅灯アーカイブス〜色街の残照〜』(東京都墨田区・玉の井)[16枚、平成2(1990)年、平成14(2002)年撮影]

オンライン・フィルム写真展『紅灯アーカイブス〜色街の残照〜』のご案内

このnoteは、昭和の終わりから平成にかけてフィルムカメラで撮影された、掲題の娼街や歓楽街等の写真を展示するオンライン写真展です。デジタルでは得られないフィルム特有の味わい深い描写で、もう二度と見ることができない娼街の終幕の姿をご鑑賞下さい。

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展示写真

撮影情報

  • 撮影時期:平成2(1990)年4月、同年8月、平成14(2002)年8月(★は1990年8月、▲は2002年8月撮影)

  • 撮影箇所:東京都墨田区・玉の井

  • 収録枚数:16枚

  • 収録サイズ:長辺3,500ピクセル

沿革

昭和戦前期における都内最大の私娼窟、玉ノ井。昭和5年の時点で業者497軒、娼婦901名。
永井荷風『寺じまの記』の記述を引いて、大正12年起きた関東大震災を契機に浅草十二階下にあった銘酒屋(娼家)が移動してきたと言及する書籍等は多いが、これは誤りであり、起源は大正初期に遡る。
もともと田圃が広がる農村地域に過ぎなかった玉の井(南葛飾郡寺島町の小字)に、土地の発展を願う地元の有志らが、白鬚橋から玉の井方面を貫通する道路を大正天皇御大典を記念して造成開始したのは、大正2年。道路が完成した大正4年頃より小工場が多数建設されると共に、住宅や商店が立ち並び、大正8年、欧州大戦の好景気に乗じて中島守利が芸者街を企図するが、結果的に東京府はこれを許可せず、見切り発車で移転してきた向島の芸者屋が私娼化。
また、隅田川の向かい浅草・凌雲閣の階下(通称・十二階下)に住み着いていた業者・私娼も、これに合流することになる。十二階下で銘酒屋を建前に売春を行う娼家は明治30年に126軒の群生をなしており、凌雲閣が完成した明治23年頃には既に発生していたと推定されている。
当時、十二階下は東京最大の私娼窟となっており、最盛期には凌雲閣の辺りから千束町の広範囲にかけて、1,000軒を超える娼家と、2,000名を超える娼婦がいたとされるが、都内の私娼紊乱を見兼ねた警視庁が大正5年前後に私娼撲滅の方針を打ち出す。が、それでも絶えることはなかった。
大正7〜8年頃、言問通りの幅員拡張によって立ち退きを迫られた業者が、大正通り沿いに移転、新旧の娼家が合流した。これにより大正通り沿いが殆ど銘酒屋になってしまい、この状況を、永井荷風は代表作『墨東綺譚』に記している。
当時の客筋は、周辺工場の工員を相手とし、相当の活況を呈したことから、これに倣うものが続出し、2万坪に数百戸の娼家を数えるまでに成長したが、警察の取締により一時的に衰退し、大正通りから少し奥まった南側へ引っ込み形成された一廓が、一般に戦前の玉の井を指すエリアである。
大正12年、関東大震災により十二階下の銘酒屋は潰滅。十二階下および東京市内、さらには神奈川県の業者と私娼が玉の井に合流。ここに一大私娼窟の形成をみることになる。
戦中は産業戦士慰安の名目で営業を継続するも、昭和20年3月9日の空襲により潰滅。業者は、焼け残っていた寺島7丁目(戦後の玉の井)、寺島1丁目(のちの鳩の街)、亀有へ新天地を求めて分裂した。
玉ノ井の地に残った業者の再興は、袂を分かち外へ流れた業者(鳩の街、亀有)以上に難航する。大正通りの北側にあたる寺島7丁目(現・墨田3丁目の中央部)で焼け残っていた長屋に目をつける。昭和20年12月中の再開を目指す業者40名は、運動資金・立ち退き料を集め、40戸の立ち退き交渉を開始。GHQ/SCAPの名を騙って立ち退きを強要したことや、住民らは経済的な困窮に陥っていたことから立ち退きが進むが、反対する町内会長から申し立てを受けた警視庁は中止命令を下し、再開は頓挫。
既に開業していた寺島1丁目側(のちの鳩の街)への合流であれば再開も認めていた警視庁だったが、結局は進駐軍の性的慰安所を名目として寺島7丁目に24軒の再開を許可。翌昭和21年1月18日、再開に漕ぎつけた。
昭和12年に東京朝日新聞に連載された永井荷風『濹東綺譚』で挿絵を描いた木村荘八は、実地に戦前と戦後の玉の井へ足を運び、その特徴をよく捉えたイラストを描き残している。
また、戦前の玉の井は、吉原や品川などとは異なり、伝統・型に嵌まらず、自由な雰囲気が当時の文士たち、永井荷風、徳田秋声、高村光太郎らを惹きつけていたが、戦後はもっぱら周辺の工員たちが通う大衆向けの色街となり、分家筋の鳩の街に人気を奪われている。(解説文・渡辺豪〈note〉)

参考資料

『赤線 1958/S33』(通販ページ

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