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金ちゃんの紙芝居『ハニーさんの一日』を終えて

戦後、進駐軍が駐屯した基地周辺では、連合軍(主に米軍)将兵相手の娼婦が多く佇立し、彼女らはパンパン・ガール(以下、パンパン)と呼ばれました。

戦後のカストリ雑誌の一種である『VAN』誌上で、社会評論家・辰野隆[1888 - 1964]は、人種や肌の色、過去の利害関係を無視して交際を結ぶパンパンを指して、概略次のように述べています。

「現代で最も古くて変わり映えのしないものは、政治。反対に最も新しく民主的なものは、パンパンの女たち。なぜなら彼女らは人種的、国際的な偏見を超越しているから」

『VAN』(昭和22年12月号)

辰野の言辞は、戦後も変わらない政治の欺瞞を風刺するためもので、パンパンはあくまで政治家や官僚と対極にある存在として引き合いに出されたに過ぎませんが、効果的に用いられ、風刺の力がありました。

さて、去る2023年10月28日、弊店にて金ちゃんこと田中利夫さん(昭和16年生まれ、82歳)の紙芝居講演を主催し、無事終えました。

移転後、第一弾となる当イベント、お陰様で満員御礼となりました。ご参加下さった皆様に御礼申し上げます。

金ちゃん(親しみを込めて、こう呼ばせて頂きます。)を存じ上げたのは2017年のこと、来店したお客様のお一人から、埼玉県朝霞市で戦後史を題材に紙芝居を口談している金ちゃんの存在を教えて貰いました。

遊廓専門書店を名乗り、加えて、戦後史に最も強く興味を覚える店主の私は是非お会いしたい、と願ってはいたものの日々の雑務に追われて、ようやくコンタクトを取ったのは2019年、同年、パンパンにフォーカスして紙芝居を主催しました。

以後、NHKにも取り上げられ、近年では占領下のフラタニゼーション(占領先の女性を親しくなること)を研究する平井和子先生(一橋大学)の新刊『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・親密な交際』にも一章を割いて聞き取りを掲載されるなど、メディアのみならずアカデミズムからも注目されています。

にわかには信じ難いかもしれませんが、金ちゃんの紙芝居には、道ばたで米兵を探して娘にあてがっていた母親も描かれています。米兵を娘にあてがう親心とは何だったのでしょうか。親は娘を娼婦にしたかったのでしょうか?

戦後間もない頃、街娼は身体を売って生きて行かざるを得ない〝可哀想な女〟と見られていました。

〽泣けて涙も涸れ果てた こんな女に誰がした

菊池章子『星の流れに』

昭和22年リリースされ、流行した歌謡曲『星の流れに』の印象的なフレーズからは、当時のパンパンへ向けられた眼差しを窺い知ることができます。「自分の意志とは関わりなく『こんな女』すなわち米兵相手の娼婦になった」という歌詞には、貞淑な日本人女性は自ら進んで米国人と交わるはずがなく、嫌々ながら身体を開いているのだとする視点、換言すれば社会からの期待があります。

やがて世相が落ち着き始める頃、パンパンは戦禍癒えない日本人の苦境をよそに米兵に媚びて良い暮らしをする〝ふしだらな女〟と見做されるようになりました。華美で享楽的な暮らしぶりよりも、自ら進んで米国人と交わる日本人女性の姿が、社会に受け容れられなかったのだと私は理解しています。

社会が期待する姿であれば同情され、反対に求められない姿であれば軽蔑される。

後年、私たちがパンパンを扱った本やメディアを目にするときや自ら言及するとき、〝可哀想な女〟、〝ふしだらな女〟あるいは近年目立ってきた〝したたかで逞しい女〟と、実態を知ることなく、ただ手前勝手な幻想(=その時代に期待される姿)を重ね合わせては同情・軽蔑・共感し、怖い物見たさや覗き見趣味を満足させているとすれば、戦後から78年を経て、どれだけ前進できたのだろうかと考えざるを得ません。

上演中、金ちゃんが口にした他愛ない一言が、店主の私には強く心に残りました。ある紙芝居の一枚に登場するパンパンを指して、金ちゃんは「どうしてもこのお姉さんの名前が思い出せない」と小さくつぶやきました。

多くの人には、当時から70年も経ち、物忘れが多くなった老紙芝居師がボヤいた何気ない一言に映ったかも知れません。実際そうかも知れません。ただ、金ちゃんにとって描かれている一人一人のパンパンはどこかの誰かではなく、名前もあり顔もあるお姉さんであり、そのことを忘れてしまった自分を嘆くお人柄に、私は胸を打たれました。

先に挙げた、わざわざ娘に米兵をあてがう母親の心境は、圧倒的な物質的豊かさを誇っていたアメリカに近づくことで、わずかでも娘の幸福を願い、貧困から脱出させようと足掻いた母心だったのだと私は理解しています。そして、この母娘の前に横たわる抗しがたい貧困に目を向けなければ、怖い物見たさや覗き見趣味を満足させるだけであり、私たちは82歳の金ちゃんから手渡されたバトンを受け止めきれずに、〝偏見を超越できない、古くて変わり映えのしないもの〟になってしまうのではないでしょうか。