【古畑任三郎】いやいやいや『ラスト・ダンス』久しぶりに観たらめっちゃ良かったなオイ。

タイトルの通りです。

正直、あまり好きな回ではなかったので殆ど観返してなかったんですね、『ラスト・ダンス』。
放送当時、リアタイした中学生の香澄ちゃんには正直ぴんと来なかったんですよ。「えー、これが最終回なの?」って感じで。

①まず、ネットで検索しても多くの人が指摘している「いやこの設定で、初手からあんな見え見えの伏線張ったらトリックバレバレじゃん」という問題。

②それから「過去作のオマージュをいっぱい入れてるのは分かったけどさ、そんな内輪受けの目配せに力入れるよりミステリとしての精度高めてよ」という、ヒネたファンの(中学生だったんだから許してくださいね)生意気な「変な媚び方してこないでよ」意識。

③それから、「なんで古畑さん、この人にそんな肩入れすんの?」という違和感。松嶋菜々子さん演じるもみじ先生/かえで先生が嘘みたいに可愛いのは認めざるを得ないんですが、「こんなポッと出が古畑さんの『最後の女』だって言うの!?キーッ!」となってたわけです。香澄ちゃんは二葉鳳翆過激派なので。

でも、今観返すと上記に挙げた「難点」と思ってたポイントが上手く消化できたと言うか、「ああ、こういう意図があったんだな」「なるほど『古畑』を終わらせるためにはこういう犯人とストーリーは必要だったな」と、自分の中で評価がかなり上がったんですよね(上から目線)。

たぶん当時の私と同じ感想だった古畑ファンは少なくないと思うので、いっちょ『ラスト・ダンス』弁護人を気取って解説していきます!!!!


①トリックバレバレじゃん問題

「かえでの見落とし」として見ても違和感のない「水槽の使用目的」の謎解きを中盤の盛り上がりに置いて、「ダンスが出来ない」を決定的証拠として詰める構成を見るに、脚本の段階では「かえでともみじの入れ替わりは最後まで視聴者に伏せておく」ことを狙っていたのだと思います。

一方で、「古畑さんのコートに何も言わないかえで」のシーンはあまりに露骨で、ここで多くの視聴者は入れ替わりに気づいたはずです。
「かえでは計画の遂行に気を取られていて古畑さんのコートどころじゃなかった」といったような、ミスリードな描き方はいくらでもできたはずなのです。事実、その直後の「お姉さんとはよく似てらっしゃるんですか?」という「古畑さんが初手から彼女がもみじであることに気づいている」ことを暗示するズバリな台詞は、実にさりげなく語られ、撮られています。

しかし……「古畑さんがここで『かえで』の正体に気づいている」と気づいた方が、かえってその後の古畑さんのちょっとした言葉のダブルミーニングの面白さや、見せる表情の痛切さを味わうことができて、見返すとむしろ演出として正解だったんじゃ?とすら思いました。


②過去作オマージュうるさい問題

別記事で精査してみましたが、『ラスト・ダンス』で、特に多くの要素が引用されている作品は下記の4作です。

『さよなら、DJ』
・「ラスト・ダンスは私に」を、同作で古畑さんが歌っている
・「警部じゃなくて警部補」という言及
・今泉君が走ってタイムを計測するくだり

『偽善の報酬』
・女性脚本家という職業設定
・片方は派手好み、片方は地味という仲の悪い姉妹

『ゲームの達人』
・被害者を狂言に引き入れることで成立するトリック
・爆竹による発砲時間誤認
・証言者を演じるのが松金よね子氏

『哀しき完全犯罪』
・小日向文世氏が登場
・自分がしたいおしゃれを否定されるシーン
・被害者からの偽の電話によるアリバイ工作
・メディアの前で失敗してしまうシークエンス

殺害トリック周辺の多くの要素がほぼ丸ごと踏襲されている『ゲームの達人』は、「自分が欲しかったものをすべて持っている相手を殺す話」でした。
同作の被害者・花見録助は有名な推理小説家で、挫折した作家志望者である乾研一郎にとっては「自分が受けるにふさわしい称賛を、その力もないのに受けている男」でした。おそらくは乾が花見の妻を寝取ったのは、彼への意趣返しあるいは同一化を願っての行為だったのでしょう。
「浮気の清算」という動機は表面的なものでしかなく、乾が花見の死を願ったのは、「彼が生きていると自分が惨めだから」です。それは、もみじとかえでの関係性に重なります。

タイトルにもなっている「ラスト・ダンスは私に」が登場する『さよなら、DJ』の犯人・中浦たか子は、恋人を寝取った付き人を殺害します。
『死者からの伝言』の小石川ちなみ、『笑える死体』の笹山アリ、『ピアノ・レッスン』の井口薫、『ニューヨークでの出来事』ののり子ケンドール、『古畑、歯医者に行く』の金森晴子……『古畑』に登場する女性犯人たちは、優れた才能によって高い社会的地位を得ながら、「失った男」のために凶行に及びます
『ラスト・ダンス』は、そうした「女性犯人もの」の、独特なバリエーションです。大野もみじが「失った男」とは、古畑任三郎に他なりません。
本作はもみじが、出会う前から、かえでに好意を抱いていると知っていた「あらかじめ失われた男」との逢瀬を重ね、惹かれていく物語なのです。

そして『哀しき完全犯罪』。古畑版『忘れられたスター』を企図して制作された同作は、ラストシーンで、『忘れられた~』のさらにオマージュ元である『サンセット大通り』のラストをパロディするという非常に込み入った作品だったりします。
「自分を抑圧するものから解放されて、新しい自分として自由になりたかった」女性が、しかし自分にはその「自由」は扱いきれない重荷だったと気づかされる、あのあまりに残酷な物語は『ラスト・ダンス』に、最も濃い影を落としているように思います。
「自由になりたい」というテーマは、『偽善の報酬』にも(ずっとライトな描き方ですが)共通しています。

『ゲームの達人』『さよなら、DJ』『哀しき完全犯罪』からのオマージュが目立つのは、大野もみじが、

・自分が欲しかったものを持っている相手を憎む作家=乾研一郎
・男を失い、それを得た女を殺す女=中浦たか子
・自由を求めながらも、その自由に押しつぶされる女=小田嶋さくら

と重なる存在であると暗示するためだったのだと思います。

そして『偽善の報酬』が選ばれたのは、「派手な方が地味な方を殺す」同作のイメージを配置することで、シリーズファンにミスリードを効かせる意図だったのでしょう。
(同様の手法として、『古い友人に会う』では、『死者からの伝言』『間違われた男』、刑事コロンボ『攻撃命令』のイメージを織り込むことで、「浮気された男が復讐のために男を殺すのだろう」という予断を呼び、安斎の「真の狙い」から目をそらさせるという仕掛けがなされています)


③なんでこんなポッと出が特別扱いなの!?問題

なぜ大野もみじは古畑任三郎の「最後の女」なのか。

ひとつは、彼女は古畑さんが負った「傷」を唯一、癒せる犯人だからです。

『今、甦る死』では今泉君の口から、古畑さんが『すべて閣下の仕業』で黛竹千代を自殺させたことで心に大きな痛手を負ったと語られます。そして古畑さんは、同作でも「救えたかもしれない犯人」音弥君を死なせてしまいます。

古畑任三郎を「救い」、物語を終わらせるためには、「犯人を死から救う」プロセスが必要でした。

これは仮説にすぎませんが、『ラスト・ダンス』は倒叙形式のサスペンスの傑作として、映画『太陽がいっぱい』をモチーフにしているように思います。
(弱いながら傍証はあります。試写会が開催されている映画『Non Retour』の「監督フランシス・クレマン」と「主演マリー・サルソー」の名前は、おそらく『太陽がいっぱい』のルネ・クレマン監督とヒロイン役のマリー・ラフォレに由来するもので、暗示として織り込まれたものと考えられます。
それに、作中でもみじ先生に関わる事物は『Non Rerour』に『ポタージュ』とフランス関係、かえで先生は『ブルガリ三四郎』とイタリア料理店のラ・ボエムとイタリア関係なのも、『太陽がいっぱい』が仏伊合作映画であることへのオマージュな気がします)

淀川長治先生が『太陽がいっぱい』にホモセクシュアルの隠喩が散りばめられていることを看破したのはよく知られた話です。
トムがフィリップの服を着て鏡に向かって愛の言葉を囁き、口づけをする有名な場面(トムはフィリップに自分を同化させながら、同時に鏡の中でフィリップに口説かれ、あるいは鏡の中のフィリップを口説いている。「鏡」は『ラスト・ダンス』においても重要なモチーフでした)、あからさまにマルジュ-フィリップ-トムの三角関係として描かれる人間配置、そしてトムは自分を捨てようとしたフィリップを殺し、「自分自身がフィリップになる」ことで彼を独占しようと望むのです。

(「嫉妬している男の女を手に入れることで同一化しようとする」というテーマは、前述の通り『ゲームの達人』とも共通しています。そういえば草刈正雄さんは「和製アラン・ドロン」なんて呼ばれていたんでしたね)

『ラスト・ダンス』のもみじとかえでの関係をトムとフィリップの関係に重ねるならば、もみじが殺したのは「誰」だったのでしょうか?
……そう、もみじはかえでを殺したのではありません。互いの服を入れ替えた犯行シーンの通り、彼女は「大野かえでになるために大野もみじを殺した」のです。
それゆえにラストの謎解きは、犯人に自分が大野もみじであると認めさせることで「自殺した大野もみじを生き返らせる」儀式であったのです。
古畑任三郎はこの「犯人を死から復活させる」プロセスを通じて、黛竹千代と堀部音弥の死という「傷」から回復することができたのでした。

そしていまひとつは、彼女が「古畑さんが寄り添うことのできる」犯人であったことです。
そのために必要としたのが、このドラマシリーズにしてはいささか「踏み越えた」感のある、「恋心を抱く古畑」という姿でした。
大野もみじは、「あらかじめ男を失った女」でした。大野かえでの死によって「男を失った女」と「女を失った男」であるがゆえに、もみじと古畑は似た者同士として寄り添える。
ぎこちなく手を取り合い、「踊れない者同士」としてラスト・ダンスを踊る相手は、その意味で彼女しかありえなかったのです。
いうなれば『ラスト・ダンス』は「古畑任三郎」における『シン・エヴァンゲリオン』。大野もみじは古畑さんにとっての真希波マリだったのです(本当か?)。

いや本当、当時あんまりハマんなかった人ほど見て!Tverで観れるうちに!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?