『ブルーロック』16巻感想
16巻、主人公チームの敵チームのキャプテンが語る日本論を読んで思うのはこうである。
私が知る限り、昭和の時代からこすられ続けてきた「日本の同調圧力が個の才能を殺す」論だと。
それは1巻からエゴコーチが語ってきた通りだし、冴がかつて凛に言った「調和が好きな日本はやっぱり 突出した才能を平凡なガラクタに変えやがる」もそうである。
そんな長年の、ある意味では手垢が付いたとも言える論をテーマとして少年漫画が描かれ、なおかつヒットするとは思わなかった。
日本人は、いつまでこうした論をこすり続けるのだろうか。それは日本が日本である限りずっと、なのかも知れない。
一方では、日本的な和を重んじる精神こそが素晴らしいとする論もある。『ブルーロック』の中では1巻で早々に否定的に描かれたが、実のところ、否定し切れるものでもないはずだ。
現実のサッカーについてはよく知らない。日米野球について言えば、日本的なやり方はけっこう通用したはずである。
野茂英雄氏がメジャーリーグに行って以来、日本の一流どころはやがてメジャーに行くのがほぼ既定路線になってしまったのも事実だけれど。
ただそれは、純粋にスポーツの勝敗というよりは、プロスポーツビジネスとしての観点からも見なくてはならないだろう。
まあでも、サッカーに関して言えば、日本はまだまだ後塵を拝していて、ゆえに日本的な特質、強みと言ってもいいが、それをヨーロッパ的な個人主義と対等に、対立的に並べるのはまだ難しいのだろう。
野球なら、アメリカ的な文化に対して出来ると思う。現実がああだからね(笑
フィクション、特にエンターテイメント系は、現実とは関係のない娯楽を提供するのに意義があるとする人々がいる。
一面においてそれは間違いでもないが、別な一面からすれば、やはり完全に現実を無視は出来ないのである。
つまり現実において対等に、かつ対立的に扱えるものならフィクションの中でも扱いやすいし、仮にあえて一方だけを良しとするなら、難度は上がる。
サッカーではなくて野球だったら、日本的な特質が悪いとは言い切れなくなるはずである。たとえエンタメフィクションであっても。
いや、エンタメならなおさらに。
エンタメは現実にはない楽しみや喜びを提供するが、同時に現実を無視も出来ないのである。
そんな事を『ブルーロック』を読んでいて思った。
ここまで読んでくださってありがとうございました。次の記事もお楽しみに。
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